椿・七


 頼りない足取りで、楓は縁に出た。
 白い朝の光が、目にまぶしい。
「起きたのか」
 その光に薄れそうになる椿の香の中に、兄、斬紅郎が一人立っていた。
「目が覚めました。
 なぜかはわかりませんが」
「そうか」
 ぺたっ、と楓は縁に座り込む。
「行ってしまったのですか?」
「行ってしまった」
「そう」
「ああ。
 ………!」
 しゅんっ
 抜刀。
 ごおっ、と風が、一瞬遅れて、鳴いた。
 斬紅郎が自分の動きを認識したときには、影は真っ二つになって、地に落ちていた。
「兄上っ」
「楓、動くなっ!」
 ざわっ、と心と体が騒ぐのを感じながら、斬紅郎は叫んだ。
 右手のみで大太刀を握り、左手と手首で交差し、斜に下段に構える。
 椿の香が、ねっとりとした血臭に飲み込まれていく。
――いる。
 どこだとか、数だとかはわからない。だが、何か、おそらくはただの肉塊となったものの仲間がこちらを見ている。
 友好的だとは戯れにも言えない。
 居場所の掴めない、薄気味の悪い殺気がこの家を取り囲んでいる。
 その気を感じ取り、体中の毛がちりちりと震えるようだ。
 しかしそれに反して、静まり返る己の心に気づいていた。
 一瞬とはいえ、激しく騒いだのが嘘のように、しん、と心は静かになっていく。
 じりじりと近づく殺気の鋭さとは裏腹に、『それ』が近づけば近づくほどに、心は静寂そのものと化す。
「ふうううううううううっ」
 静かに、細く長く、斬紅郎は息を吐いた。
 体も静かだ。鼓動は高ぶらず、呼吸はむしろ普段よりも緩やかになっている。
 椿の香が、血の匂いの中に消えた。
 ひゅるっ
 大気が、鳴いた。


 楓はただ、見ていた。
 襲い来る影。
 それをいともたやすく斬り捨てる兄。
 大太刀の銀の軌跡が閃く度に、赤いものが舞う。
 躯から舞う鮮血と。
 風に舞う椿の花と。
 落ちる度に死体が増える。
 まるで夢のような光景だと、楓は思った。
 影達は、まるで斬られるために飛び出して来るように見える。
 一人、二人、三人、四人……
 炎に飛び込む羽虫のように、刃の下に飛び出してきては、斬られ、死ぬ。
 断末魔の声も上げず、静かに、躯となる。
 それを楓はただ、見ていた。
「………………」
 いつの間にか、兄は静かにたたずんでいた。
 右手に握られた大太刀は、何事もなかったかのように、ぎらりと朝の日を弾いている。
 動くものはない。
 赤い花の咲く中、赤いにおいが漂う中、斬紅郎は立っていた。
 ゆっくりと、その頭が、動いた。
 楓の方を、見る。
 逆光で、表情が見えない。
「兄…上………」
 誘われるように、楓は声を発していた。
 すうっと、斬紅郎の腕が上がる。
 大太刀を握った、右腕。
 大太刀には、血の雫一つない。
 違う、と楓は思った。
 この男は、知らない男だと。見知らぬ男がいると。
 その男に、自分は斬られる。殺される。死ぬ。
 恐怖はなかった。
 ああ、死ぬのだと思った。
 刃の下に身を投げた影達も、そう思ったのではないだろうか。
 近づいて来る。刀を振り上げた男が、近づいて来る。
 楓はそれを、ただ、見ていた。
――蘇枋…さん……
 いつの間にか、頭の中はあの少年のことだけになっていた。
 ぴたりと、男が足を止める。
 腕が、落ちる。
 刃が、光った。

 だんっ!

 回る視界の中に、赤いものが、細く長く、流れるのが見えた。


 斬紅郎が刀を振り下ろそうとする。
 その下には、楓がいる。
 ぺたっ、と縁に座り込み、ただじっと、兄である男を見上げ、動かない。
 大太刀が弾く光が、すうと動いた。
 何も考えていなかった。
 そうするのが当然だった。
 蘇枋は飛んでいた。
 少女の細い体を抱くと、縁を蹴る。
 鈍く輝く銀が飛来するのが、見えた。
「……っ!」
 左顔面に焼けるような痛みが走り、視界の半分が朱に閉ざされる。
 ずんっ
 刃が落ちる。
 さっきまで楓がいた縁に落ち、叩き割る。
 その音を後ろに聞きながら、飛んだ勢いを殺しきれず、蘇枋は地を転がった。
 だがそれは、ほんの数瞬のことで、次の瞬間には、たんっ、と腕に楓を抱いたまま、蘇枋は立ち上がっていた。
 視界の左半分は、朱に閉ざされている。残りの半分の中に、斬紅郎の姿がある。
 傷が、痛む。
 飛び込んだときには、斬紅郎だとは思っていなかった。楓を守る、失いたくない、その一心だったから。
 だが、斬紅郎と思いたくない、そんな気持ちも、あったかもしれない。
――そうかもしれない。
 片目だけで斬紅郎を見ながら、思う。
 ゆうらりと、斬紅郎が顔を向けた。
――……………
 斬紅郎の目と、蘇枋の目が、合う。
 見覚えのある目だった。
 射抜くように鋭く、こちらを見据える目。
 夢みるように焦点の合わぬ、おぼろな目。
 相反する、決して一つにならぬはずのものが一つとなり、蘇枋を見ていた。
――……これ、だ。
 この姿が、斬紅郎の「真」だろうと、妙に冷静な心の部分で、蘇枋は思っていた。
 今の斬紅郎からは、苛立つものは感じない。欠けていると感じたものが、ぴったりとはまっている。
 斬紅郎が刀を縁から抜いた。
 蘇枋と楓の方に向き直る。
 すうっ
「!」
 蘇枋は斬紅郎に目を向けたまま、腕の中の楓を下ろし、自分の後ろに押しやる。
 それが精一杯だった。
 もう、斬紅郎は己の間合いの中に蘇枋を捉えていた。
 びやっ!
 刃が、振り上がる。

 朱に染まった半分の視界に、吠える鬼が見えた。

 ぎぃんっ!

「下がるさねっ!」
 その声に、我に返る。
「半蔵、様」
 斬紅郎の大太刀を、浅葱が己が刀で受け止めていた。右手で刀の柄を握り、左手は切っ先の背を支え、がっちりと大太刀を捉え、動かさない。
 小柄な体躯は、斬紅郎の前ではさらに小さく見える。しかし蘇枋には、大きく見えた。
「行けいっ!」
「…はっ!」
 楓の手を握る。
 ゆっくりと、斬紅郎に視線を残し、何も語らぬ目を見据え、後退り、その間合いから離れ、遠ざかる。
――さぁて……
 その気配を感じつつ、浅葱は斬紅郎を見上げた。
 何も映さぬ瞳。全てを映していた瞳。
 茫漠としているようで、全てを認識しているようでもある。
 ぐぐっ、と大太刀にかかる力が強くなる。
 みし、と受ける刀が呻くような音を洩らす。
 力負けする気はない。だが、数打ちの忍刀は長くはもたない。
「行くさね」
 つっ、と刀を僅かに傾ける。柄を高く、切っ先を低く。
 しゅぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!
 耳障りな音と共に、大太刀が刀の上を滑る。
 流れいくことのできる道を得た力は、留まることなく、走り、落ちる。
 その行き着く先は、

 斬っ!

腕が落ちる。追いかけるように、刃も落ちる。
 散るのは、血か、椿の花か。
 その刹那、浅葱の姿が、消えた。
 ぼとり、と腕が地につく。
 大太刀は、まだつかない。
 影が、落ちた。
 大太刀を振り下ろす斬紅郎の視線がつと、上に向く。
 刃が、視線を追い、つい、と昇る。
「浅葱様っ」
 蘇枋も、上を見ていた。
 赤い雫を降らせながら、飛来する、黒い影。
 右足を高く、振り上げている。
「おうさぁっ!」
 鋭くよく通る声と共に、浅葱はかかとを斬紅郎の頭に打ちつけた。
「………ぐっ」
 昇る刀の軌跡が乱れ、斬紅郎の巨体が大きく揺らぐ。
――まだ、だ。
 蘇枋は地を蹴り、とんだ。するりと手は、楓の手を離していた。
 浅葱が着地すると同時だった。
 ぎろ、と斬紅郎の目が、蘇枋を追う。
 軌跡を乱しながらも、刃は飛んだ蘇枋へと走った。
 しかしそれより早く、蘇枋は宙で身を捻る。
 視線。
 ぐるりと回った右足を、回転の勢いそのままに斬紅郎のこめかみにたたき込む。
「む……う…」
 一歩、斬紅郎は踏み出す。
 凍り付いたように、動きが止まる。
 蘇枋が、地に下りる。
 視線が、合った。
 見ていた。ちゃんと、その目は蘇枋を映していた。
「斬紅郎」
「ふううううううううううっ」
 ずんっ!
 長く息を吐くと、斬紅郎は、ばったりと倒れた。

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