椿・八


 暫し茫然と、倒れた巨漢を見つめていた蘇枋を我に返らせたのは、抑えに抑えた苦痛の声だった。
「浅葱様っ」
 浅葱は片膝をつき、ずっぱりと斬られた左の肩口を押さえていた。指の隙間からあふれた血が、ぼたぼたと地面に、降っている。
「………よう、やったさ」
 浅葱は口の端に笑みを浮かべ、言った。しかしその顔には、びっしりと脂汗が浮かんでいる。
 蘇枋は何か答えようとした。が、声が出ない。
 ふらふらと浅葱の前へ歩み寄り、両膝をつく。
「………」
 言いたいことはある。だが、言ったところでどうにもならない。取り返しのつかないことを招いた己が、何を言えるかと己を責める声がある。
「……うん」
 浅葱はただ、頷いた。責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ、頷いた。
 蘇枋は無言で浅葱の傷の手当を始める。
 上衣を脱がせ、血止め及び化膿止めの薬草を傷に張り付け、丁寧に、ゆっくり処置していく。
 その手は、僅かに震えていた。
 浅葱はべっとりと手についた血を袴に擦りつけておとすと、その手を蘇枋に伸ばした。ようやく出血の止まった、蘇枋の左顔面の傷に触れる。
「……んっ」
 僅かに、蘇枋は眉を寄せた。
「痛むさね」
「いえ」
 首を振ったものの、傷はひどい痛みを訴えている。掠っただけのはずだが、焼けるような痛みが消えない。
「ふむ……」
 子細に、傷の具合いを調べる。
「失礼します」
 すっと、細い手が、そこへ割って入った。
 濡らした手拭が、蘇枋の顔を染める朱を拭う。
「楓、殿」
 さっきまで、やはり茫然としていたはずの楓が、そこにいた。
「兄は、ただ気を失っているだけのようです。それなら、今は皆さんの方が」
 ほんの少し、硬い表情だったが、それでも、ほっ、とするなにかは変わらない。
「………………」
「そうさね。すまないさね」
 僅かに視線を逸した蘇枋の代わりのように、浅葱が軽く頭を下げた。
「それで」
 と、楓の後ろに目を向ける。
 そこには、水の入った手桶を持った気成がいた。
 眉をぎゅっと潜めたその顔は、不機嫌なようにも、困惑しているようにも見えた。
 その表情のまま、気成は答えた。
「二人、討ちました。他にはいないようです」
「そうさね」
 頷き、浅葱はきれいに血を拭きとられた蘇枋の傷を診る。
 左顔面に、縦に、一筋。
 眉の上から、目を走り、頬の中程までもある。
 いったんは出血は止まったようだが、拭われたことで、またじくじくと赤いものが染み出してきていた。
「痛むさね?」
「いえ」
 同じ問いに、同じ答えを返す。
 だが痛みは、先ほどよりは楽になっていた。冷たい水に濡れた手拭のおかげだろうか。
「盲いる傷ではないが……これは、残るさね」
 ぴくっ、とその言葉に反応したのは、楓だった。一瞬浅葱を見、蘇枋の傷をじっと見つめる。
 哀しい目をしていた。
 蘇枋は、浅葱の傷に包帯がわりの割いた手拭を巻いていた。だから、楓の目には気づかなかった。
 ぎゅっ、と強く、包帯を縛る。
「しかたありません」
 こつっ。
 呟いた蘇枋の頭に、拳骨を一つ、軽くではあったが、浅葱は落とした。
「十年早いさね」
 声は、少しばかり怒っていた。
「………?」
 蘇枋には、なぜ浅葱が怒るのかがわからない。
 浅葱は上衣を片手で器用に羽織ると、
「よぉく考えるさね」
厳しさを残したまま、そう言った。
「……はい」
 頷きながらも、蘇枋にはやはり浅葱の言葉の意味がわからない。
 傷を負ったのは己の未熟さのため。だからそれが残っても仕方がないはずだ。なのになぜ、浅葱はそれをとがめるのだろうか……
 楓は、安堵したとも、困っているともとれる表情で、そんな蘇枋の顔の傷に、くるくると包帯を巻いた。
「さて」
 楓、蘇枋に順に視線を移し、最後に気成に向けると、浅葱は立ち上がった。足元はしっかりしており、痛みの気配は表には見せていない。汗すら、ひいてしまっている。
「もう少し、この辺りを見ておくとするさ。気成、ついて来るさね」
「それなら、俺が。浅葱様は休んでいてください」
「いいや」
 立ち上がりかけた蘇枋を、軽く制する。
 そして、地に転がったままだった自分の左腕を、拾い上げた。
「これも、処分しないとならんさね。お主はここで、死体を片付けておくさね」
「しかし……」
「気成」
「はっ」
 蘇枋の言葉を完全に抑えると、浅葱は気成を連れ、庭を出た。
「浅葱様……」
「……気を、使ってくれたんだろうさ」
 蘇枋を慰めるように、そして感嘆を含んだ声が、残された蘇枋と楓の後ろから、上がった。
 しかしその声には、深い苦悩が潜んでいる。
「斬紅郎!」
「兄上」
 慌てて二人が振り返ると、斬紅郎が丁度、むっくりと体を起こしたところだった。首筋を痛そうに抑えている。
「いつ、目を覚ましたんだ」
「お前が怒られている辺り、かな」
 にや、と笑ってみせる。いつものように。ちゃんと目は、楓も、蘇枋も映している。だが、苦悩の影は消えない。
 楓を見、蘇枋を見る。蘇枋の顔の包帯に、眉が寄る。
 だが、何も言わず立ち上がる。
「斬紅郎」
「ん?」
「すまない」
 深く、蘇枋は頭を下げた。
「お前が謝ることじゃない。それよりも…」
 妹を、案ずるように見やる。
「楓殿に傷はない」
――見たところはな。
 声にせず呟くと、蘇枋に視線を戻す。
「蘇枋」
「……なんだ」
「話がある」
「なんだ」
「俺は……」
 言いかけ、口ごもる。
 周りを見回し、言う。
「先に片付けておこう。こう、ものが転がっていては話にならん。あの人もそう言っていたことだし」
「……わかった」

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