死体を片付け終わってもまだ、浅葱と気成は戻ってこない。何かあったのでなければ、本当に気を使ってくれているらしい。 縁に、蘇枋と斬紅郎は並んで腰を下ろした。楓は二人から少し離れたところで、静かに座っている。 「傷、痛むか」 「そんなには」 斬紅郎の問いに、蘇枋は軽く包帯に触れ、答える。 和らいでいるとはいえ、痛みはまだ消えていない。 何故だろう、と思う。 掠めただけなのは間違いない。盲いることはないと浅葱が言うのだから、その程度の軽傷のはず。なのに、これほど痛むのは、何故なのだろう。 「そうか」 「掠めただけだ。盲いることもない」 「そう、か」 よかった、というように、斬紅郎は息を吐いた。 「すまなかった」 「いや。だが、なぜだ」 なぜ、妹にまで刃を向けた。 「よくわからん」 「わからんって、どういうことだ」 あの時の斬紅郎の目を見る限り、心はなかった気がする。だからわからないかもしれない。だが…… 斬紅郎は、すぐには答えなかった。 脇においてあった、大太刀を取る。 壬無月の家に代々、『無限流』と共に伝えられてきた大太刀、『紅鋼怨獄丸』。 「『鬼』、かもしれん」 ひく、と空気の匂いを嗅ぐ。 庭に満ちていた血の匂いは随分と薄れた。死体を片付けたせいもあるだろうが、椿の香の力だろう。それほど強くない香が、それでも確かに、力を放っている。 「『鬼』?」 「無限流の目指すところは『無』だ。 「限り無し」ではない。「無を限りとする」、そういう意味だ」 首をかしげた蘇枋に、斬紅郎は、淡々と、一見関係のなさそうなことを語り始めた。 「人には皆『我』がある。その『我』が時として技を狂わせる。 ならば『我』を消して戦いに臨めばいい。平たく言えば、何にも考えなければいいってことだ。 何も考えずとも体は動き、負けることなし。それが、無限流の目指すものだ。 この大太刀や、その他諸々は、それを実現するための、道具だ」 「……?」 「これだけの大わざものを振るいながら、『何も考えないこと』を実現するのは骨と思わんか? それに、単純に力を得れば得るほどに、『無』になることは難しくなる。 敢えて難しいように、整えていったわけだ」 「そういうもの、なのか」 どこか腑に落ちない様子で、蘇枋は言った。 実際、蘇枋にはよくわからない話なのである。『戦い』というものに対してなんの思い入れのない忍には、剣士のような拘りはない。 「ああ」 斬紅郎は、軽く苦笑しつつ、頷いた。 蘇枋の考えは、わかる。その無邪気とも言える問いは、よくわかる。そして少しばかり、羨ましい。 「俺も無限流を修める身だ。当然、『無』となることを目指している。そして、最近、わかってきたような気がしていた。だがな」 思い返す、二つの光景。 蘇枋の刃の下で死んでいった者達。 傷だらけの蘇枋。 助けてやろう、そう思う前に、自分は何を考えた? 「『無』へと向かう中で、人の根本的な性は最後まで強く残る。 その性こそが、『鬼』だ。 何思うことなく人を斬る。だが、『無限流』の目指すものとは違う姿。しかし、通らねばならぬ道でもある。 それが、『鬼』だ」 無限流の創始者は、鬼だったという伝説もある。鬼だった者が、果てにたどり着いたものが『無』であり、その時が『無限流』の始まりだったという。 だからこそ、『鬼』は『無』にたどり着くためにはどうしても通らねばならぬものなのだと、斬紅郎は師であり先代の無限流継承者であった父に聞いた。 その父も、『無』にたどり着けず、『鬼』となることを恐れ、斬紅郎に無限流と大太刀を譲り、姿を消した。 「じゃあ」 何も映していないようで、全てを見ていたような目は、『鬼』だったからか。 「ああ。あの時も、さっきも、俺はただの『鬼』だった。斬りたい、殺したい、それだけの思いで剣を振るう、『鬼』だった。悪いことに、殆ど覚えがないがな」 記憶にあるのは、血のにおい、赤、己の刃の描く軌跡。 ただ自分を見る、妹の黒い目。 細く流れた、血の赤。 「『無』だからか?」 「さあな。わからん。たどり着いた者は何も残していない。たどり着けぬ者には、語る術はない。 ただわかるのは、俺が未熟だということだ。『無』にたどりつけない、『鬼』であがく、未熟者だ」 大太刀を取る。 ――それでも これを捨てる気には、どうしてもならない。 『壬無月の剣、だからな』 いつか、蘇枋に言った言葉だ。 だから、か。 「だからな、蘇枋」 「ああ」 「楓のこと、頼む」 「……何っ!?」 斬紅郎が想像した通りに、蘇枋は驚きの声を上げた。 「俺は、廻国修行に出る。『鬼』を超え、『無』にたどり着くために。 だが、楓は連れては行けない。修行の旅は楽ではないし、危険もつきまとう。 それに」 斬紅郎は言葉を切った。 ひた、と蘇枋の鳶色の目を見据える。 「それに何より……同じことを繰り返さん、という自信がない」 己自身を逃さぬように、逃さぬために蘇枋を見つめ、斬紅郎は言った。 「だから、楓のことをお前に頼みたい」 驚きと困惑、喜び、惑い、怒り……様々な感情が一気に蘇枋の瞳を駆け抜けた。 「俺に?」 「ああ。俺が『無』を得ることができるようになる、までな」 蘇枋は楓を見た。 楓は、困っていた。困っていて、何かを期待する、さびしそうな目をしていた。 蘇枋は斬紅郎に視線を移しかけ……また、楓に目を戻す。 浅葱や、特に気成がなんと言うだろうかということが心の片隅に浮かぶ。 一存で決められはずのないことである。それ以前に、受けるなどとんでもないことである。 だが、受ければ…… 共にいられる。 いつかまた、会える。 「斬紅郎」 楓を見たまま、言う。 少女は、その黒い目に全ての想いを乗せ、しかし沈黙を保っている。自分の想いはそれで伝わる、だから、答えは蘇枋が出すべきだ、そう言わんばかりに。 「もし、『鬼』でしかいられないとしたら、『無』など夢幻(ゆめまぼろし)に過ぎないものだとしたら、どうする」 斬紅郎は一瞬、虚を突かれ、目を丸くした。 だが、すぐに表情を緩めると、遠くを見やる。 「……どうするかな」 途方に暮れているように見えた。 何も考えていないようにも、見えた。 大太刀に視線が移る。 ――その時には、捨てられるかもな…… 「『鬼』として、斬られるか」 『紅鋼怨獄丸』を見据えたまま呟いた言葉は、心とは全く逆のものだった。 しかし、心の方が間違っているかもしれないと、斬紅郎は思う。思わぬ中から出た言葉の方が、正しいのではないかと。 楓と蘇枋を、振り返る。 「怒るぞ」 「怒りますよ」 蘇枋も楓も、怒っていた。 一方の顔には、不安におびえる色が濃く、表れていたが。 「……すまん。 だが、大丈夫だ。俺は必ず、『鬼』を超えてみせる。必ずだ」 「そうか」 「そうだ」 さわ、と風が吹いた。 椿の香が浄化した底に残る血臭を、吹き払う。 「また…会えるか」 「会うさ。その時には、楓と、お前に、会いにいくさ」 とん、と大太刀を地に突き、努めて明るい口調で斬紅郎は言った。 吹き抜けた風のせいか、椿の花が、二つ三つ、落ちる。 蘇枋は、言った。 「…………わかった。引き受ける」 正しいなどとは思っていない。そうしたい、と思ったことを、口にした。 「そうか」 「そうだ」 斬紅郎は、大太刀を置いた。 「感謝する」 深く、頭を下げる。 「お願いします」 楓も、頭を下げた。 「ああ……わかった」 どういう表情をすべきなのか困りながら、蘇枋は頷いた。 |