帰還・弌


 雪もそろそろ溶けようか、という頃に、服部半蔵はひょっこりと、出羽の里に姿を現した。
 墨染めの筒袖に伊賀袴、後ろ腰に、刀を一振り。一年ほど前に訪れたときと、なりは変わらない。
 だが、違いが二つ。
 一人ではなく、少年を一人従えていること。
 もう一つは、半蔵の筒袖の左袖がひらひらと、その歩みに合わせて虚しく揺れていたこと、だった。


 いつものように書を読んでいた出羽の里長、藤林左門は、いつものように半蔵を迎えた。
 半蔵は余すことなく、しかし余計なものは一切なく、淡々とした口調で、ただあったことだけを里長に報告した。
 左門は口を挟むことなく、半蔵が語るに任せ、表情すら動かすことなく、ただ静かに全てを聞いた。
 火の気のない左門の部屋は、しん、と寒い。
 だがその寒さなど知らぬ風に、一方は語り、一方は聞いていた。
「以上、さね」
 そう言って、半蔵は語りを終える。
 左門は頷き、言う。
「御苦労」
「は」
 半蔵は右手を突き、軽く頭を下げる。
 息が、白く凍った。
「それで、あの子は」
「千賀地へ、置いてきたさね」
 手を膝の上に戻す。
 先ほどまでと違い、語調が和らいだものに変わっている。
「ほう」
 頷く左門の顔も、また。
「譲るのかい」
「儂は、そのつもりさね」
「そうかい」
「そうさね」
 とん、と指で膝を打つ。
「御苦労さん」
「そうなると、いいさねぇ」
 ほおっ、と白い息を吐きながら、半蔵は言った。
 その顔が、「どちらでもいい」と言っているように、左門には思えた。


 寒さはまだまだ厳しい。
 山に囲まれた千賀地を吹く風は、身を切るようである。
 雪のないぶん、出羽よりもこの地の方が寒さは強いかもしれない。
 伊賀衆のお屋形の屋敷の一間で、少年は一人座していた。若鷹を思わせる顔の左には、縦に傷が走っている。
 この地でお屋形様の指示に従えと、半蔵は少年に命じた。
 だから、ここにいる。
『考えるさね』
 半蔵が命以外に少年に与えたたった一言が、少年の頭をぐるぐると回る。あの二日間の記憶と共に、ぐるぐると回る。
 風が、僅かな隙間から部屋に忍び込み、寒さを厳しくする。
 少年は、膝の上の拳を、強く握りしめた。
 風に、寒さに、吹き付けてくる何かに向かうように、顔をまっすぐ上げる。
 『何か』を見据えるように、じっと前を少年は凝視していた。


 少女は、出羽の里から少し離れた地の、庵にいた。
 里を訪れる前に半蔵は楓を、左門の妻である綾女に預けたのであった。故あって里で暮らしていないこの女性の元が、一番よかろうとの判断であった。
 遠慮なく、不躾なまでに綾女の視線を、少女は少し困った様子ながらも、穏やかな黒い瞳で受け止め射ている。
「おしい。されど、それもよし」
 ややあって、ぽんっ、と投げるように綾女は言った。
 少女は微かに首をかしげた。
 茶のかかった、波揺れる髪が、ふわ、と流れた。



 一年半の時が過ぎた。
 北国の出羽はようやく春が訪れ、山の桜が白い花を一杯につけた頃である。
 隻腕の男が、出羽の里を去った。
 年若い青年が、『服部半蔵』となった。
 その側には、茶の髪の娘が一人いた。

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