一 二星逢


 勘蔵の足の動きに削れた土塊が、崖の下に落ちていく。
 それを合図とするように、ぶおんと風が鳴った。
 大人の一抱えに余る太い腕が、振り下ろされる。
『七分まで見れば、相手を己の内にできる』
 教えられたことを心に唱えながら、迫る腕を見る。
 見る。
 見る。
 見る……
 とんっ
 地を蹴り、後方に跳ぶ。
 ふわりと体が、大地の束縛から解き放たれる感覚。
 うわんと目の前で大気がわめく。
 一呼吸遅れ、巨体が体勢を崩す。それを立て直すこともできず、倒れ……落ちる。
 それを見届けた次の瞬間、ぐんっ、と勘蔵の体も、地の力に引かれた。


「コンルっ!」
 とっさにリムルルは叫んだ。


 鈎縄を投げる。
 崖の上の木に、かかる。
――よしっ
 縄が張る衝撃に、備える。
 ばぐんっ
――え………?
 視界が真っ白になる。寒い。冷たい。音が遠い。
――なんだなんだなんだぁっ!?
 混乱する勘蔵の手に、ぷっつりと縄が切れた感触が、伝わった。


 どぉん、とすさまじい音を立て、巨体が地に落ちた。
 ちら、とそれをリムルルは見る。
 強力な邪気を放っているが、地に頭からめり込んだ「それ」は、動きそうにも、ない。
 その目の前にすうっと、大きな氷の塊が舞い降りた。中に人影が見える。
 ぽんっ
 氷の塊は、中から人間を吐き出すと、しゅるしゅると小さく縮んだ。
 吐き出されたのは、焦げ茶色の忍装束姿の、リムルルと同じぐらいの年の若者だ。左の二の腕に縛り付けられた真紅の布が目を引く。
――あれ?
 日に焼けた肌、黒い目、精悍だが気のよさそうな顔立ち……
 この若者と何度か会ったことがある、そのことをリムルルは思い出した。
「勘蔵、さん……?」
 かけられた言葉に、茫然とした面もちで、勘蔵は青い飾り布を頭に巻いた少女を見上げた。
「え……あ、リムルル?」
 大きな愛くるしい目の、幼さをまだ顔に残したこの少女を、勘蔵もまた覚えていた。
 初めて会ったのは、一年ほど前だ。それ以来、縁があるのか何度か会うことがあった。
 だが、そのリムルルが、なぜ今自分の前にいるのかはさっぱりわからない。
――……どういうこと、だ?
 ここは崖下、だ。だが、どうやって?
「うん。あ、怪我、ない?
 落ちるのが見えたときにはびっくりしちゃった。だからちょっと乱暴になっちゃったの」
 にっこりと目の前で微笑まれ、眉を寄せる。まだ状況が理解できない。
「…………………」
 右手に残るちぎれた「元」鈎縄を見る。
 リムルルの右肩の上でふよふよと浮いている透き通った塊―コンルとリムルルは呼んでいた―を見る。
――んーーーー……
 状況を頭の中で整理しようとする。
 リムルルは精霊の声を聞くことができる、蝦夷人の巫戦士。小さな外見からは想像のできない力を持っていると父、半蔵から聞いている。
 そしてそれを、勘蔵も見た。
「どうしたの? どこか怪我したの?」
 勘蔵は立ち上がり、ひょい、と手を伸ばすとコンルに触れた。
「冷てっ」
 きんっ、と頭まで冷たさが走る。
「コンルに触ったら、冷たいよ」
 不思議そうに、リムルルは勘蔵を見上げた。かっきり頭一つ分、リムルルは勘蔵より小さい。
「うん、冷たい」
 白く閉ざされた視界、冷気、浮遊感……
――これ……か………!
 はっ、と顔を向ける。リムルルも、ほぼ同時に同じ方を見た。
 身を刺すかと思うほど強力な、しかし乱れた邪気が吹き付けた、その方を。

 ずん

 鈍い音と共に、天へ向いていた巨体の足が、地に落ちた。
 続いて手を地につき、頭を引き抜く。
――まずい……っ!
 ぐい。
「え?」
 いきなり腕を掴まれ、リムルルは目をしばたかせた。
 勘蔵の手は、大きくて、固い。
「逃げるよ」
 言いながら、「それ」をちらと振り返る。
――……!
 「それ」の目は、呪の印されたぼろぼろの布で隠されている。だが、「それ」は確かに勘蔵とリムルルを見……唇のない、剥き出しの歯を、僅かに開いた。
――……嗤っ…た……
 先の光景が、手練の忍達が「それ」に倒された時の光景が、脳裏を走る。あの時も「それ」は嗤っていた。
「……行くぞ!」
 こみ上げた嫌悪と恐怖を振り切るように叫ぶと、勘蔵はリムルルの手を引っ張って走り出した。
「ちょ、ちょっとぉっ〜〜!」
 リムルルの困惑の叫びを無視し、ひたすらに勘蔵は駆けた。
 切れた縄が、ぽつんと残されていた。


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