二 春庭花


 「それ」の気配が完全に感じられないところまできて、ようやく勘蔵は足を止めた。
――ここまで来れば、見つけられることはないだろう……が……
 あれだけの高さの崖から落ちてなお動くモノ。己の手には余る。
――藤若さん達からも十分に引き離したはずだし…一度、退いた方がいいな。それに……
 「それ」の、あの、顔……
「……ねぇ」
「………ん?」
「離して欲しい……なぁ」
 じと、と勘蔵を見上げ、リムルルは言った。
 そう言われてようやく、勘蔵は自分がリムルルの細い腕を掴んだままだったことに気づいた。やわらかで少しひやりとした腕の感触が、不意に強く意識される。
「あ! ああ、ごめん!」
 慌てて勘蔵は少女の腕から手を離した。力が入っていたらしく、掴んでいたところが赤くなっている。
「痛かった?」
「ちょっと。
 もう、急なんだもん」
「ごめ………っ」
――い。
 軽く頭を下げたところで……硬直。
 全く偶然―行動からすれば必然の結果だが―に目に飛び込んだものに、思考が停止する。
「どうしたの?」
 頭を下げたまま動かない勘蔵の顔を、リムルルは覗き込んだ。
「………………」
「ねぇ?」
「…………………」
「ねえってば!」
――あ。
 強いリムルルの声に勘蔵は我に返り、慌てて顔を上げた。
「どうしたの?」
 怪訝そうにリムルルは勘蔵を見上げる。
「……は、恥ずかしくない…かい?」
 少女の顔だけを見るように努力しながら、勘蔵は言った。
 自分が耳まで真っ赤になっているのがわかる。それがさらに勘蔵の顔を赤くさせる。
「恥ずかしいって……何が?」
 ぷっと頬を膨らませ、瑠璃色の短袖の上衣に、白い半袴姿のリムルルは腰に手を当てた。
「年頃の女の子が、足や腕をむき出しにしているのは…その…よくないと、思うんだけど……」
 前に会った時はこうでなかった、と動揺している頭で思う。確か裾の長い衣と、裾の長い少し変わった形の袴姿だったはずだ。
「そう?」
「女の子は、こう、もっと……動き易い格好でもほら、前みたいに、きちんとさ……」
 どうしても視界に入って来る、少女の白い、すらりと伸びた手足が気になって仕方がない。それは年頃の健康な若者には、些か刺激が強い光景であった。
「そうかなぁ……。あたしはこれ気に入ってるんだけど……」
 勘蔵が何故そんな風に言うのかわからず、リムルルは自分の衣を見回した。
「………………………」
「……あ、そうだ」
 やっぱり視線のやり場に困っている勘蔵を見上げる。
「……ん?」
「どうして逃げたの?」
「え?」
「あれ、放っておくわけにはいかないでしょ」
 また腰に手を当て、勘蔵をたしなめるようにリムルルは言う。
「それは、そうだけど……でも、あいつは強い。簡単には斃せないよ」
「だいじょうぶ。あたし、やっつけたことあるもの」
 勘蔵は二度、三度瞬きした。
「……やっつけた?」
「うん。確かに強かったけど、やっつけたよ」
「………………」
 さらりと、自信を持って言ってのけたリムルルを、思わず勘蔵はまじまじと見つめる。
 この小さな少女が秘める力は知っている。何度か、目の当たりにもした。
 だが同時に勘蔵は、「それ」の恐ろしさもよく知っている。
「それに、もし、あれが勘蔵さんが言うように強いのなら、それだけ危険ってことでしょ? よけいに放っておくわけにはいかないよ」
 そう言ったリムルルの表情は、真剣だった。
 その顔に勘蔵は、目の前にいる少女が巫戦士なのだと改めて実感した。女であるとか、幼いとか、そういうことを感じさせない、自分が何をしなければならないのか、何をするのかを知っている巫戦士だと。
「それは、そうだけど」
 勘蔵とて、「それ」を放ったままにしておきたくはない。忍だとか役目だだとかではなく、何かもっと根本的なものの為に、「それ」を何とかしなければならないと思う。
――……だけど。
「本当に、危険なんだ。真正直に戦って勝てる相手じゃない」
 手練の伊賀忍が三人、それに勘蔵を入れた四人でかかっても斃せなかった。二人が深手を負い、一人も傷を受けた。だから勘蔵は危険を承知で「それ」を一人で誘い出し、仲間から少しでも引き離そうとしていたのだ。
 斃そうとしていたのではない。引き離すだけ、のつもりだった。
「……………」
 じとぉっ、とリムルルは勘蔵を見上げる。
――う。
 無意識に勘蔵は一歩退いていた。
「じゃあ、どうするの?」
 しかしリムルルは、不満そうな顔ではあったが、そう、言った。
「一度退く。怪我をしている仲間がいるから戻って様子を……」
「待ってっ」
 再び勘蔵の言葉を、リムルルは遮った。
 軽く目を閉じ、すう、と腕を開く。
――……………
 そのままリムルルは動かない。
――ええと……
 困ったように頭にやりかけた手を、勘蔵は止めた。
――じゃない、か。
 身を伏せ、地に耳を当てる。
 微かに地が揺れる「音」が感じられる。いや、何よりもあの邪気が大気をさざめかしている。
「……来るよ」
 見上げたそこにある黒い目に、頷きを返す。
「あたし、行く」
「リムルル……」
 片膝をついた姿勢で、少女を見上げる。
 だが、言いはしたものの、悟っていた。
「だって、みんなの声が聞こえるの。苦しんでるんだもん。放っておけないよ……だから!」
 悲痛だとか、哀しみだとか、そんなものではなかった。
 言うなれば使命感に近いだろう。それは義務づけられたものでも、強制されたものでもない。
 彼女が、望むこと。
「あたし行くよ!
 コンル!」
 氷の塊に呼びかけると、リムルルは走り出した。
 とっさに勘蔵が見たのは、己の左腕に縛り付けた、鮮やかな紅い布。
――………だけど!
「リムルルっ!」
 追った。
 木々の間に消えかけた少女が、足を止める。
「リムルル、待って、俺も行くから!」
「……え……?」
 驚きと安堵と喜びをない交ぜにした表情を浮かべ、リムルルは振り返った。
「ほんと?」
 追いついた勘蔵を、それでも心配そうに見上げる。
「ああ……」
 何故か弾んだ呼吸を整えながら、勘蔵は頷いた。
「でも、どうして?」
「放っておけないから」
 つい、とリムルルから顔を逸らしながら、言う。
「え?」
 その顔を覗こうとするが、リムルルの背では、見上げてしまった勘蔵の顔は見ることができない。
「……俺だって、さ」
 早口に、付け足す。
 手に余る相手なのは嫌というほどわかっている。退いた方がいいのもわかっている。だが、それを納得していない自分も、いる。
――だからだよ。
 自分に言い聞かせるように、口の中で呟く。
「そっか……。うん」
「あ、だけど」
 ひょい、と視線をリムルルに戻す。
「無理は絶対にしない。それは、約束して欲しい」
「うん」
「駄目だと思ったら、逃げるんだ」
「うんっ」
――……大丈夫かな……
 元気の良いリムルルの返事に、一抹の不安が拭えない勘蔵であった。


三 青海波 へ
「紅蓮の」トップへ
物書きの間トップへ
物書きの間トップへ(ノーフレーム)