さくら


 海から吹き付ける春の風が、岩肌を駆け、天へと昇る。
 昇る風を翼に捕らえ、悠々と舞う鳶が一羽、二羽。
 それらが上げる高い声は岸壁に砕ける波の音を貫き、緩やかな春の大気を振るわせる。
 はらりと白いかけらが崖の上から、海に舞った。
 それらはいっしゅん、昇る風にふうっと浮き上がるが、風から逃れるようにくるりと回ると、青い海へと流れていく。
 ひゃらり
 軽やかな笛の音がそれを追った。
 
 筑前の北部、玄界灘に面する地に小高い丘があり、そこに桜に包まれた小さな古い神社があった。
 花の盛りは僅かに過ぎ、桜は海からの風に惜しみなくその花びらを散らしている。
 そして散り舞う花びらのただ中に、白い巡礼の衣に身を包んだ服部真蔵の姿があった。
 真蔵は、咲き誇る桜、風に散る桜の様を見つめながら、笛を奏していた。その音は強く己を主張することなく、かといって潜み隠れるわけでもなく、時に春の風に舞い、潮騒の響きと戯れ、遠い鳶の声に応えながら、花びらと共に流れていく。
――……ん?
 ふるる、と木に咲く花が震え、黒髪が散る花びらと踊る風に、流れた。
――何?
 真蔵は驚いて、二度、三度目をしばたたかせた。笛の音が、僅かに乱れる。
 花びらだけがあったはずの視界の中に、いつの間にか一人の娘が、いた。
 娘は風に揺らめく長く艶やかな黒髪を赤い布で飾り、同じ赤で裾や袖口を縁取った白い着物を纏い、鷹と狼を従えている。
 優しげだが凛とした面立ちの娘は、大きな黒い目をまっすぐに真蔵に向けている。
 見知った娘だった。
 かつてこの身が天草に支配されていた時にその視界を通して幾度か見たことがあり、解放された後に一度だけ言葉を交わしたことがある。
 巫であり戦士である、蝦夷人の娘。
――ナコルル。
 娘が何者なのかに思い至っても、真蔵は笛を奏すのを止めなかった。
 ナコルルが笛の音が続けられることを望んでいるのが、春風を通じて伝わってくる。
 硬くなっていた表情を緩めると、口元に笑みを含み、真蔵は笛を続けた。
 流れるその音は、自然と先よりも優しいものとなった。

 花びらをさらう風が、ふっ、と弱くなると同時に、真蔵は一曲吹き終えた。
 ゆっくりと笛を口元から離す。
「お久しぶりです」
「こちらこそ。
 ユガとの戦いのこと、父より聞いております。ご無事で何よりです」
「ええ、半蔵さんにも助けていただきました。感謝していますとお伝えください」
「承知しました。
 しかし、どうしてまたカムイコタンから? ひょっとしてまだ…魔物どもが?」
 一つ頷いてから問いかけた真蔵の鳶色の目で、いくつもの感情が入り混じって揺れた。
 巫戦士として魔が現世を狙う限り、戦わなければならないナコルルを気遣う気持ちがある。
 今一つは忍として、また、魔を敵と定めし者として『今』を知りたい気持ちと、知る事への畏れがある。
「……ええ」
 それらを受け止めたナコルルは表情を曇らせた。
 それでも、受け止めたからこそはっきりと告げた。
「まだ魔物は現世から消えていません。
 あのユガと……別の強力な魔物の存在を感じます」
「別の?」
「ええ。ユガとは異質な……似て異なる、二つの魔物が新たに顕れています」
「そう、ですか……」
 重い息を真蔵はついた。
 天草四郎時貞の復活を始まりとする、魔のモノどもの現世への侵攻はまだ終わっていない。真蔵も薄々と感じてはいたことだが、巫であるナコルルの言葉によってそれは確信となった。そして同時にそれは、真蔵の贖罪が終わらないことも意味していた。
 自覚するその重さに、目の前にいるナコルルも、桜も無いかのような険しい表情が、真蔵の顔に浮かんでいた。
「真蔵さん……」
「……………………」
「あの」
「…………あ、は、はい」
 二度の呼びかけに、沈みかけた思考をあわてて引き戻す。
「なんでしょう?」
 聞き返しながら、己を見上げるナコルルの大きな黒い目に気遣いの色を認め、感情を抑えられない己の未熟さを悔やんだ。
「真蔵さんは……どうして、ここに?」
「そう……ですね……」
 真蔵は己の悔いをナコルルに気づかれないように、ついと、桜を見上げる。
 その向こうに、空が見える。
 桜色を通して見る蒼は、つい先日までは大陸からの砂で黄色がかっていたが、今日はどこまでも高く澄んでいる。海の方に目をやれば、玄界灘に浮かぶ島々や、海の向こうの長州までもがはっきりと見えた。
 その景色が、ここに来た理由を真蔵に思い出させた。
「私も魔を追っていますが、今日は、一休みです」
 ナコルルに視線を戻し、今し方の暗い感情を吹き払って、にっこりと笑ってみせる。
「ここは元来陽の気の強いところですし、多くの神が祀られています。魔のことを忘れて休むには、いい場所ですよ」
「それで笛を?」
 真蔵の表情の変化に安堵したように、ナコルルも表情を緩めた。
「はい。景色に誘われました」
「とっても素敵な音色でしたよ」
「え?」
 その言葉に、今までとは別の意味で真蔵の表情が固まった。
「そ、そうですか……? 手すさびに覚えたので、つたないものですが……」
「心のこもった、優しい曲でした。
 この音に惹かれて私、ここに来たんです」
「は、はぁ……ありがとうございます……」
 このような率直な褒め言葉を受けたことの少ない真蔵は、顔を真っ赤にしながら礼の言葉を口にした。やはり先とは別の意味で、感情が抑えられない己の未熟さが歯がゆくてならない。
「し、忍は、こういった芸がいくつかできた方がいいんですよ、それも、巧い方が、やはりいいんです。ですから、嬉しいです」
「忍の方は、みなさんそうなんですか?」
 ナコルルは軽く首を傾げた。それが、言葉にした問いのためか、しどろもどろになった真蔵の様子の所為かは外見(そとみ)からはわからない。
「はい。弟は手妻(手品)をしますし、詩を詠む者もいます」
「じゃあ、半蔵さんも、何かされるんですか?」
「は?」
 ナコルルの言葉は、再び真蔵の虚を突いた。
「真蔵さんみたいに、半蔵さんも笛を吹かれたりするのかと、思ったんですけれども……」
「………………………………………………」
 あらん限りの記憶を掘り返してみる。
――………………………………………………
「真蔵さん?」
「はっ」
 ナコルルに呼ばれ、真蔵は我に返った。
「あ、す、すみません……父上が笛を吹くところは見たことはありません……」
「そうですか」
 真蔵の様子にか、それとも自分も半蔵のことを想像したのか、くすとナコルルは小さく笑った。
「あ、でも、茶を点てることがありますよ」
「お茶、ですか?」
「茶の点て方や、その雰囲気を道として高めたり、愉しむ習慣が和人にはあるんです」
 そしてそれもまた、一つの芸だ。
 咄嗟に楽や手妻の方向に思考が向いてしまったからおかしなことを考えてしまったが、父、服部半蔵にも芸がある。
 そのことに気づけたことが真蔵には嬉しく、独り小さく微笑んだ。
「そうなんですか」
 ひらひらと、花びらがナコルルに降る。
「そうなんです」
 頷いた真蔵の上にも、花びらがいくつもいくつも舞い落ちる。
「そうですか」
 もう一度繰り返し、ナコルルも微咲んだ。
 その肩に、ぽとりと桜の花が落ちる。
 少し遅れて、ちちっと鳴いて緑の小鳥が枝から飛び立った。花を抜けた小鳥の姿は、あっという間に見えなくなる。
「あの」
「はい?」
 何気なく小鳥を目で探していた真蔵は、ナコルルに視線を戻した。
「もう一度笛を吹いていただけませんか?」
「はい?」
「今日は、お休みですから」
 見上げたナコルルの微笑みが、彼女らしくなくいたずらっぽいものに真蔵に見えたのは、今日という日の所為だろう。
「そうですね」
 真蔵は笛を構えると、ふうるりと息を吹き込んだ。
 澄んだ柔らかい音が穏やかな春の大気に流れ出す。
 先と同じように、音色は海から吹き付ける風に散る花びらと、優しく降り注ぐ日の光と戯れ、呼応しながら周囲に広がっていく。
 ナコルルはその音を、軽く目を閉じて聞いていた。その足下に控えるシクルゥも、桜の木の上から見守るママハハも、じっと音色に耳を傾けている。
 その様を見やって、真蔵もまた目を閉じた。
 この穏やかな今日という日に感謝しつつ、少しでも長くその時を感じていられることを望みながら。

 花びらを散らす桜の枝の芽が、ほのかに緑に色づいていた。

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