赤卒


 ぴい、ぴい、ぴいひゃらら
 ぴいぴいひゃらひゃら ぴいひゃらら
 とんつくとんつくとんつくとん
 ぴいぴいひゃらひゃら ぴいひゃらら……

 今日は、町の八幡様の祭だ。
 氏子の家々は軒に提灯を吊し、町を行く人々のなりも、皆どこか普段より華やかだ。
 向こうの通りでは神輿(みこし)が走り、こちらの通りではお囃子(おはやし)を乗せた屋台が行き、それらを追って歓声を上げる子供たちが駆け回る。
 賑やかで、うきうきとした楽しそうな祭の空気が町いっぱいに満ち満ちている。
 地方によって奏でられる囃子、飾り付け、神輿や屋台の形は違っても、この祭の空気はどこであっても変わらないだろう。
 その町を、赤卒が群で、あるいは数匹で、一匹で、飛びいく。
 どの赤卒も、ついー、ついー、と、日暮れに遠くなる日差しを、ぬくみを失っていく大気を惜しむように、止まっては飛び、止まっては飛びを繰り返していく。

 惜しむのは、今日の『日』だけではないのではないか、と、橘右京は思った。
 卒―蜻蛉達は知っているのだ。
 日ごとに日輪の光は弱くなり、反して大気は冷たさを帯びていくことを。
 己らの生きられる時がどうすることもできぬまま、過ぎ去っていくことを。
 だから、立ち止まるのだ。
 ただ飛び続けているのではないことを確かめるために。
 まだ生きていることを確かめるために。
――私と、同じだな。
 日ごとに病は右京の体をむしばみ、体は衰えていく。
 右京の生命の刻は、日々確実に短くなっていく。
 祭の賑わいを聞き、赤卒の飛ぶのを見、風の冷たさを感じ、懐かしい町並みを行き、心安き人々と語らい……想う人と言葉を、交わす。
 それら全て、「再び」を繰り返すことはない。
 命のある間に望み―ささやかで切なる望み―を果たす日を迎えることさえも、できぬやもしれぬ身だ。
 「しかし」、と右京は思う。
 それは誰しも同じではないか。この世に生を受けたものは皆、日々、死へ近づいているのではないか。己は、その刻限が人よりも短く、いつ来るのかのおおよその時期を知っているに過ぎない。
 それは確かに大きな違いではあるのだけれども。
 だが、「それだけに過ぎない」と思ってしまえば、己の運命を悲観し、鬱々とこもっていることはできなくなる。
 だからこそ、今の右京は彼の人を想い、証となる花を求めることができる。
 赤卒達が立ち止まるが如く。
「橘君」
 知らず足を止め、じっと赤卒を見つめていた右京は、かけられた声に振り返った。
 振り返った先には、糸のように細い目の男が一人。
 年の頃は四十を幾ばくか越えた辺りか。鶯茶の着流しに同色の羽織を羽織って、きちんと月代を剃っている。腰には刀を一本だけ差している。総体、落ち着いた品の良さを感じさせる男だ。
 名は黒河内左近。神夢想一刀流総領であり、右京の剣の師である。
「先生」
 右京はきちんと師に向き直って頭を下げた。
「お久しゅうございます」
 左近は頷きを一つ返し、
「息災なようで何よりだ」
細い目を更に細くして、頷いた。

 左近も勿論、右京の病のことは知っている。知ってはいても、滅多にそのことに触れることはない。
 以前はそうではなかったと、右京は記憶している。右京が肺の病に冒されていることがわかったときには、誰よりも案じてくれた。
 それが変わったのは確か、右京が旅に出ることを―「究極の花を探しに行く」と、師にだけは打ち明けた―知らせたときだった。
 その日から、左近は右京が病にかかってなどいないかのように、その話を口にすることはなくなったと、右京は聞いた。
 弟子の一人が気になって問うたことがあるらしいが、左近は、
『生きる者の道を妨げてはいけない』
としか答えなかったという。

「先生もお変わりなく。
 今日は祭を見に?」
 右京は顔を上げると、半年ぶりに会う師に問いかける。
「いや、客人があってな。先ほどまで一献酌み交わしていたのだ。
 面白い御仁だった。よく呑み、よく食べ、いい目をしていた。久々に『人』を見た。
 君の知人だと言っていたな」
「その御仁の名は?」
 名を尋ねはしたが、右京には師にそこまで言わせる「面白い」知人は一人しか心当たりがない。
「ああ、確か」
 答えかけて、左近は言葉を切った。その細い目に不快の色が浮かぶのを右京は見、師の視線を追う。
 視線は、二人の位置から十間ほど離れた所に向けられていた。
「圭…殿…!」
 師のそれよりも強い不快と怒りが同時に右京の目に浮かぶ。抑えられてはいるものの、その怒りの激しさは語尾の掠れから見とることができた。
 ごろつきとおぼしき数人の男達が、一人の女性に絡んでいた。この程度の距離なら右京が見間違えるはずもないその女性は、右京が想いを寄せる「小田桐圭」であった。
 はっきりと圭は嫌がっているが、ごろつき達は無理矢理に路地裏に連れ込もうとしているようだ。
 祭の喧騒に紛れ、人々は気づかないか、見ても面倒に関わるまいと見ぬふりをしている。
「先生、失礼いたします」
 言うが早いが、右京は駆け出した。
「遠慮はいらない」
 師の答えも、耳に届かないほど、速く。

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