逢魔が刻


 日輪が沈んでも、夜闇が全てを閉ざすまでは少し、時間がある。
 紗のような薄闇が大地を、空を包み込み、昼でなく、夜でもない世界をほんの一時、生み出す。
 昼と夜の狭間の刻、それは人の世が人の世でありながら、そうでなくなる時。現世と常世の境が薄れ、妖しのモノが人の世を彷徨う時。
 その時を、『逢魔が刻』という。


 川は、とうとうと流れている。
 時は逢魔が刻。昼の僅かな吐息が漂い、夜の帳が揺らめく。
 天には日輪の姿はなく、星の煌めきもない。西の空に朱い光の残滓が漂い、その後を追って沈みいく蒼白い月の姿が見えるだけだ。
 流れる水の湿った匂いが漂う河原には、人影が二つ、あった。他には鳥一羽、犬一匹、いない。風も吹かぬ河原には、水の流れる音だけがころころと響いている。
 二つの人影は共に、忍であった。しかし、実に対照的な二人だ。
 一人は、伊賀忍、服部半蔵。
 闇の色の装束を纏い、腕を組んで佇んでいる。その顔は同色の覆面と燻銀の鉢金に隠され、見えない。ただ、背に流れる真紅の巻布だけが、鮮やかに浮かび上がっている。
 もう一人は、風間忍群の抜け忍、風間火月。
 炎の色の髪と装束が、薄闇の中でもはっきりと火月の存在を主張する。半蔵とは違い露わにしたその顔には、怒りの感情がある。眉をつり上げ、まなじりを決し、半蔵を睨み据えた火月は、敵を威嚇する獣のようであった。
「何用だ」
 先に口を開いたのは、半蔵であった。低く感情のない声が、火月の表情など全く意に介していないことを伝え、言い様のない威圧感を感じさせる。
「……人形師の事を教えてくれねぇか」
 半蔵の威に呑まれてなるものかと、更に険しい顔で火月は半蔵を睨み付けた。
「お主は抜け忍となったと聞いたが。
 ……それでも」
 言いながら、半蔵は組んでいた腕を解いた。その刹那、放たれた半蔵の殺気に思わず、火月は半歩足を引く。足の下で砂利が、ざ、と鳴る。
「忍がどういうものかはわかっていよう」
 即ち、答える意志はない。そう、半蔵は言っている。聞けぬならば、容赦はしない、とも。
 当然、火月にもそれはわかっている。しかしそれでも、問わずにはいられない。それほどに火月は「人形師」の手がかりを欲しているのだ。
 一月前、火月の妹、葉月が行方不明になった。そしてその日、火月は「人形師」の気配を感じた。三月ほど前に倒されたはずの、人形師にして強大なる力を持ちし魔性、壊帝ユガの気配を。
 以来、葉月を救い出すために、火月は人形師の消息を求めて駆けずり回った。その中で伊賀忍達もまた、人形師の件を調べていること――葉月だけでなく、多くの娘が神隠しにあっているらしい――を知った火月は、手っ取り早く手がかりを得るために、運良く見つけた服部半蔵の後をつけたのである。
 もっともすぐに半蔵に気づかれ、この河原に逆に誘い出されてしまったのであるが。
「わかっているさ。けどよ」
 ごおっと音を立てて、火月の後ろ腰に吊した宝刀、朱雀が炎に包まれる。
 緩やかに火月を包んでいた水の香が、朱雀の炎に、火月が放つ火の気に消滅する。
「どうあっても、聞かせてもらうぜ」
 葉月が行方知れずとなって一月が経つ。無事を信じているが、人形師にさらわれたのならば時間が過ぎれば過ぎただけ、葉月の身が危うくなることもわかっている。急がなければならない。目の前の手がかりを逃すわけにはいかない。
「………………」
 半蔵は、無言で右足を引き、背の忍刀に手を掛けた。川面を風が走ったか、その真紅の巻布が大きく翻る。
――やるしかねぇってか。
 火月も左足に体重を掛け、腰の高さで右拳をぐっと握りしめる。
 しかし、火月が気づくことはなかった。
 鉢金の下に隠された半蔵の目が、火月だけではなくもう一人、見据えていたことを。


 細い弓形の月は、西の空にて日輪を追う。
 その鋭くも薄闇を裂くことのない光にちらりと目をやって、風間蒼月はうっすらと笑みを唇に含んだ。
――流石…ですね……
 火月にだけ向けられたわけではない、半蔵の殺気。蒼月のいる場所までは気づかれていないだろうが、そ
の存在には半蔵は気づいている。
 誰か、ではない。「風間蒼月」に気づいている。
――暫く……様子を見せていただきましょう……
 半蔵が気づいていても、今は蒼月には何も仕掛けては来るまい。半蔵も蒼月の出方をうかがっているはずであろうし、まだ未熟さを残すとはいえ、半蔵の隙を逃すほどには火月の力は低くはない。
 対峙する忍二人を見つめる蒼月の冷然とした瞳に宿るは、弓形の月と同じ、光。

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