――やはり火月ではまだ、無理ですね…… 遙か高みから地に叩きつけられ、動くこともできない火月に、蒼月の目が僅かに細くなった。その視線の先で、半蔵が火月の喉元に刃を突きつける。 蒼月は後ろ腰の宝刀の柄に手をかけた。 手をかけながらも、服部半蔵は火月を殺さないという奇妙な確信が蒼月にはあった。任においては冷酷非情であるのが忍であり、『服部半蔵』もまた例に洩れることはなく、目の前の敵を見逃すことなどあり得ないにも関わらずだ。 風間忍群の抜け忍である火月には、利用する価値がある。 強大な魔である人形師を狙う者が多いほど、伊賀忍の仕事がしやすくなる、とも言える。 しかしその様な理とは全く関係のない次元で、半蔵は火月を殺さないと、蒼月は確信していた。 ――……甘いと、言うべきなのでしょうが。 蒼月の目に、皮肉な笑みが揺れる。 と、その眉が怪訝にひそめられた。 地に倒れ、おそらくはその意識も朦朧としているはずの火月の手に握られた宝刀『朱雀』が、赤々とした炎に包まれたままであることに気づいたのだ。 ――まさか…… 自然と険しい表情を浮かべる蒼月の手の中で、『青龍』が震える。その震えは、生あるものの脈動にも似ている。 ――鎮まりなさい! 柄を強く握りしめ、蒼月は叱責の念を青龍に叩きつける。 嘲笑うような無数の鈴がさざめく音が、蒼月の耳に響いた。 仰向けに倒れた火月は、苦痛に顔をしかめ、低く呻くだけだった。 刀を離さないでいるのは見上げたものであるが、もはや戦うことは出来ないだろう。 半蔵は火月の喉元に突きつけていた刀を、引いた。 ――……今は、捨て置く。 風間忍群の抜け忍である火月には、利用する価値がある。 強大な魔である人形師を狙う者が多いほど、伊賀忍の仕事がしやすくなる、とも言える。 故に、とどめを半蔵は刺さなかった。 刀を背に負った鞘に収める。踵を返し、火月に背を向ける。 川面を不意に風が駆け、半蔵の巻布を大きくはためかせる。 半蔵の足が、止まった。 風の音の中に、別の音を聞いたのだ。何かが唸る音、それは燃えさかる炎のようであり、獣の声のようでもあった。 ちりり、と全身総毛立つような感覚を半蔵が覚えたまさにその時、紫紺の夕闇を咆吼が震わした。 「ウァァァァァァァァァァッ!」 振り返ることなく、半蔵は左に飛んだ。僅かに遅れて右を何かが駆け抜ける。身が焼け付くような強烈な熱を、半蔵は感じた。 ――炎……!? 視界の端に揺らめく大きな朱い光を見ながら、半蔵の足が砂利につく。同時に、焼けた石を幾つも水の中に放り込んだような音と、真っ白い蒸気が上がった。 背後から吹き付ける熱風から目元を庇いながら、半蔵は振り返る。 振り返った先―川の浅瀬に立つ影があった。影が手にした刀に宿った炎の揺れる光が、くっきりとその姿を浮かび上がらせる。 足下からもうもうと蒸気を上げ、荒い呼吸に肩を上下させて立つは、風間火月。 火月はだらりと両手を下げ、背を丸め、低い位置から半蔵を睨めつける。その目が人ではなく、凶暴な獣のそれのように見えるのは、その手の刀で揺れる赤い炎の所為か。 「グ……」 一歩、火月が踏み出す。じゅっと、水が音を立て、新たな蒸気が上がる。 半蔵は一歩、後退った。背の刀には手をかけられない。それだけの動きすら隙になる、そう思わせるものが目前の火月にはある。 そのまま、しばし睨み合う。 ――尋常では、ない。 爛々とした光を宿す火月の両眼に、荒々しく繰り返される呼吸に、何より、火月の腕をも焼かんばかりの炎に包まれた刀に、半蔵は思った。 ゆっくりと、右手を胸元まで、上げる。 火月が飛ぶ。大きく水音が上がり、蒸気がその姿を隠す。 「ガァァァァッ!」 迫る火月の雄叫びを前にしながら、半蔵は素早く印を結んだ。 ――我が身既に鉄なり、我が心既に空なり…… ごおっと風が、炎が唸る。風に吹き飛ばされた蒸気の中から、火月の姿が現れる。その全身が薄朱い光に包まれているのを、半蔵は見た。 |