逢魔が刻


 火月の気の昂ぶりは、明らかに異常だった。その気が黄昏の薄闇を震わせ、熱気を放っているのが蒼月の位置からでも感じられる。
――……これは……やはり……
 火月が戦いにおいてずば抜けた才を秘めていることを蒼月は複雑な思いと共に知っていたが、今、目にしているものはそれではない。これは、火月の力ではない。
 人の域に属する力ではない。
「……火月、止まりなさい!」
 遅すぎると知りつつも、蒼月は思わず叫んでいた。
 その耳で響く鈴の音は、先程よりも大きい。


――……兄貴!?
 いるはずのない人物の静止の声を、火月は聞いた。獰猛な獣の光を宿す両眼が刹那、正気に戻る。
 その目に映る、印を結ぶ半蔵の姿。
――やべえっ!
 あの印には覚えがある。地に焔の輪が浮かび上がったのも見える。まずい。この後には焔の柱が、天を突く。あの焔に呑まれれば無事では済まない。
 だが躱わすには遅すぎた。どう動こうとも、焔の柱から逃れることは叶わない。
――……くっ!
 それでも、恐れと焦りを感じながらも、火月は目を閉じなかった。視界を埋め尽くすであろう朱の出現を焼き付けるように、その眼をかっと見開いていた。

「天魔、覆滅!」
 轟音と共に、朱い火柱が黄昏を貫く。

 半蔵は、そして蒼月は見た。
 火柱に身を躍らせた火月の顔に、朱い光に照らし出された火月の顔に浮かぶ、この上なく猛々しい、獣じみた笑みを。
 火月は聞いた。己の内で何かが歓喜の叫びを上げるのを。
 全身が燃えるように熱い。その熱は、右手から、右手に握る朱雀から始まっている。
 体の奥で何かが脈動する。朱雀から流れ込む熱が脈動を生む。
 脈動は新たな熱と朱を生み、生まれたそれらが火月の指の先、髪の先まで広がっていく。
 それとともに、甘美なまでに強大な力が己を満たすのを火月は感じた。
――この力なら……
 半蔵を倒せる、と火月は思った。それだけではない、壊帝ユガをも倒し、葉月を救うのも容易いだろう。
――この力さえ、あれば。
 火月の、朱雀を握る手に力がこもった。それを待っていたかのように、火月の中で何かが弾ける。何かが、嗤う。
『ガァァァァァァァァァァァァァァッ!!!』
 火月は、聞いた。己の口からほとばしる、己ではない何かの咆吼を。
 それを最後に、火月の意識は熱と朱に呑み込まれた。

 火柱が、爆発した。
 そのただ中に、舞い踊る火の粉の中に、仁王立ちに立つ姿が在った。
 体格、顔立ちは何処か火月に似ている。だが、火月ではない。
 獅子のたてがみの如く逆立ち揺れる髪は金色に、肌の色は褐色に変わり、露わになった上半身や顔には炎の揺らめきを思わす紋様が顕れている。大きく開いた口からは牙のように鋭く尖った犬歯が上下に覗く。炎と同じ色の眼には理性の色はなく、凶暴かつ凶悪な破壊衝動だけが見える。
 人のありようではない。これは魔性、炎の魔性――炎邪だ。
 火柱が立ったとき以上の熱気を放ち、『炎邪』が一歩踏み出す。熱気が颶風を生み、半蔵に叩きつけられる。
 巻き起こる風に圧されたように、半蔵は一歩、下がった。
 この魔性が、何らかの因果で風間火月が変じたものだということは推測するまでもない。幸か不幸か、半蔵は人が魔と変わるところを知らぬ訳でもなく、強大な力を持った魔性と対峙した経験もある。それでも目の当たりにした『炎邪』の出現は半蔵を驚かせ、動揺させていた。
 動揺の所為か、半蔵は『炎邪』との間合いを計りながらも、退くか仕掛けるかを決めかねている。
 戦う理由はもとより半蔵にはない。しかし退くことは容易くない。この魔性は、それを許すまい。
 そんな半蔵の葛藤に気づいているのか、『炎邪』は半蔵を睨めつけ、
『ガ…ァ……』
満足げに、嗤った。


 無数の鈴がさざめくがごとき澄んだ高い音だけが、蒼月の耳に響く。
 同時に、体の芯を掴まれたような悪寒と、快とも不快ともつかぬ痺れが蒼月の体を貫く。
 たがが、外れる。目に見えぬ枷が弾け飛んでいく。
 蒼月の後ろ腰に吊された刀が、蒼い光に包まれる。さざめく音がこの刀から放たれていることを蒼月は知っている。
「……くっ……う……」
 蒼月の中に力が流れ込む。蒼月の内から力が溢れ出す。あまりにも強大なそれがもたらす苦痛に、蒼月は胸元を押さえて膝をついた。
 束ねられていた蒼月の長い髪が、しゅるりとほどけて流れ落ちる。
 あたかも、水の如く。あたかも、蒼月を包み込むが如く。
 あたかも――蒼月を捕らえ、戒めるが、如く。
 蒼月の、胸元を押さえた腕に、地についた腕に、苦しげに歪む端正なその顔に、妖しの紋様が浮かび上がった。
――……青、龍……っ……
 蒼月の持つ宝刀「青龍」には、その名を冠した強力な存在が封じられている。封じられていると言っても、大人しくしているわけではない。隙あらば封印を破り、肉体を――蒼月の肉体を奪い現世に復活しようとしている。
 火月の肉体を奪い、現世に降臨した炎邪――朱雀と同じく。
 そう、火月の持つ宝刀にもまた、朱雀の名を持つ存在が封じられていたのであった。
――こんな、時に……
 忌々しく思い、しかしすぐに蒼月は薄く笑った。
――こんな時だからこそ、か。
 朱雀の目醒め、解放に、青龍は呼応している。
 同時に、力を蒼月は欲している。
 服部半蔵を倒すために。
 炎邪、否、火月を止めるために。
――……いいでしょう……この体、この一時だけ、貴方に貸してあげましょう……
 蒼月は目を閉じ、力の蒼き奔流に己を投げ出した。


 滝の轟きにも似た音に、それと同時に背に感じた凍てつくような冷気に、半蔵は振り返った。
 その視線の先に、いつの間に出現していたのか、巨大な水柱が在った。内部から淡い光を放つそれは半蔵の視線が触れたまさにその時、内から、砕け散る。
 砕けた水は、西の空に消えゆく弓月の光を、そして水柱の内からの光を弾き、煌めきながら地に川面に降り注ぐ。
 水柱が砕けた後に、立つ姿がある。片足、それも爪先立ちで立つ姿は水鳥が如き優雅さと、鎌首をもたげた蛇が如き脅威を半蔵に感じさせる。
 その長い髪は夕闇に緩やかになびき、その露わな上半身や顔には水の流れを思わす紋様が顕れている。冷ややかに半蔵を見据える眼は、底無しの淵の色だ。
 これもまた炎邪と同じく、人ではない。これは水の魔性――
「うぬは水邪、か」
 呟く半蔵の声には、今度は驚きの響きは無かった。二体目の魔性の出現に感覚が麻痺してしまったのか、火月が炎邪に変じたのだから水邪の出現も予期できたのか。それとも、驚いている場合ではないと忍の性が感情を縛ったか。
 己の心境をそこまで深く考える余地は、今の半蔵にはない。
 ただ確認するが如く、その名を呼ぶ。水邪の出現と共に、消えた気配の主の名を。
「風間、蒼月」
 水邪は半蔵に目を向けると、笑んだ。優雅で禍々しく、冷たい殺気を宿した肯定の笑み。
 紛れもなくそれは、風間蒼月の笑みであった。

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