『ウオオォォォォォッ!』 水邪の笑みが合図であったかのように、炎邪が動いた。 焔に包まれた腕を振りかざし、野火が草原を焼くが如くの速さで半蔵に襲いかかる。同時に、水邪もまた滑るような足取りで間合いを詰めてくる。 先に迫るは、炎邪。 半蔵は地を蹴り、宙へと飛んで炎邪の焔の拳を躱わす。僅かに遅れて、空が鳴く。二つ。半蔵が飛んだのと、もう一つ。目を向けると、半蔵より遙か高い位置に水邪の姿がある。 水邪は両手を天にかざし、背を大きく逸らした。 『月輪波』 幾重にも重なって響く声と共に、腕を振り下ろす。その腕から、高速回転する青い球、水の球が三つ、半蔵に向かって襲来する。 宙では身を躱わすことはできず、飛来するそれを半蔵は抜き放った忍刀で斬り払う。しかし刃を抜けた一つが、半蔵の胸に直撃する。 直撃した箇所から瞬時に全身が凍りつくような冷たさと痛みが走り、半蔵の体勢がぐらりと崩れた。崩れたそこへ、斬られ、あるいは半蔵にぶつかって砕けた水球の無数の雫が、意志在るかの如く半蔵に絡みつく。それらは半蔵を戒め、地に引きずり落とした。 落下の衝撃を少しでも和らげようと、半蔵は河原を転がる。戒めの所為か思うように体が動かず、息が詰まり、体のあちこちに痛みが走る。 その耳に重く響く炎邪の足音が聞こえた。水邪がふわりと着地するのも視界に入る。 転がっても水の戒めは解けない。手段を選んでいる時間はない。 半蔵は一つ息を吸い込み、拳を振り上げた。 「微塵隠れ!」 半蔵は地に拳を打ち付け、己の内なる火気を強引に爆裂させた。半蔵を起点として真っ赤な爆炎が噴き上がって水の戒めを断ち切り、半蔵に拳を振り下ろさんとした炎邪をも弾き飛ばす。 しかし、半蔵の方も無事ではすまない。水の戒めを受けた状態から無理矢理に放った爆炎は、半蔵の体にも少なからぬ痛手を与えていた。 「……っ」 苦痛に微かに呻き、よろめきながらも立ち上がる半蔵の視界に、水邪と炎邪が立ち上がる姿が映った。今の爆炎に、二体とも吹き飛ばされたようだ。 ――……二体ともだと? 半蔵の鳶色の眼で、微かに光が揺れた。何かが半蔵の中で引っかかる。しかしその正体を掴む前に、再び炎邪が叫ぶ。 『ゴアァァッ!』 今の爆炎に何の傷も受けた様子もなく、先と変わらぬ勢いで半蔵めがけて炎邪は疾る。 『喰ラ…エ……ッ!!』 半蔵の足下を薙ぐように、滑り込みざまの蹴りを繰り出す。真正面からの攻撃は、半蔵でなくとも苦もなく躱わせるはずのものだが、足下がおぼつかない今の半蔵にはこの愚直なまでの攻撃すら躱わしきれず。 臑への強烈な一撃に、半蔵の体が大きく傾ぐ。半蔵の臑を蹴った勢いで素早く立ち上がった炎邪は両の手を組み、そのまま大きく腕を振るった。 振るった腕はくずおれていく半蔵の腹にぶちこまれる。弾指の間、全ての動きが止まる。しかし次の瞬間には軽々と、あっけないほど簡単に半蔵の体は宙に飛んだ。 飛んだ半蔵の体を、踊るが如く優美に身を捻り、水邪が蹴り上げる。その体を弄ぶが如く、軽やかに高く高く、高く。 人形のように無力に無様に蹴り上げられていく半蔵の周りで、細かな雫が舞い始める。先と同じく雫は半蔵を戒め、締め上げ、更に体の自由を奪っていく。 『天昇蓮華』 冷たい水邪の言葉を、半蔵は聞いた気がした。だがそれが定かであったかを思う間もなく、焼け付くような熱と痛撃が、半蔵の背を襲う。 『砕ケ…ロ……ッ!!!』 地の底から響くような声はあっという間に遠ざかり、半蔵の体は河原に為すすべなく叩きつけられる。小さく金属音を立てて鉢金がはぜ割れ、転がった。 全身に走る激痛と衝撃に遠ざかる意識を、辛うじて半蔵は繋ぎ止めた。ここで意識を失うこと、即ち死。二体の魔性は半蔵が気を失ったからとて見逃すはずもない。 少し動かすだけでも痛む体で起きあがり、半蔵は何とか片膝をついた。呼吸を妨げる覆面を引き下ろす。気力だけで支えられた動きは緩慢で、隙だらけだ。 だが、しかし。炎邪も水邪も、半蔵に襲いかかっては来なかった。 半蔵を挟んで二体は、睨み合っていた。 『余計ナ…コトヲ……』 水邪の声にも眼にも、冷ややかな怒りの色がある。 炎邪は不満と苛立ちに歪んだ顔で、威嚇の唸りを上げている。 ――……余計な、こと……? 先と同じ引っかかりを半蔵は感じる。この引っかかりを逃してはならぬと半蔵は思った。この場を切り抜けるための鍵がそこにあると忍の本能が囁く。 体の痛みに耐え、炎邪と水邪の様子を伺いながら半蔵は思考を巡らせる。 半蔵の爆炎に共に吹き飛んだ二体。間近に迫っていた炎邪はともかく、何故水邪までもが? あの場は追い打ち、とどめは炎邪に任せるのが、そして炎邪が果たせぬ時にこそ、水邪が仕掛けるのが筋ではないか? もしあの時、水邪がすぐには仕掛けず爆炎の消えた後に動けば、半蔵は斃れていたかもしれない。風間蒼月ならば、その手を取ったはずだ。だが水邪はそうはしなかった。それが意味するものは、何か。 そして、炎邪、水邪、そしてまた炎邪と続いた先の攻撃。あれも息の合った連携ではなく、互いに半蔵を仕留めんと相争ってのものではないか? そう考えれば今二体が睨み合っている理由も合点がいく。 ――……つまり。 睨み合う二体を秘かに見比べながら、半蔵は引っかかっていたものを掴んだ。 炎邪と水邪は、強い。だがそれは、純然たる力、技の強さに過ぎない。 「戦い」を、この二体の魔性は知らない。ただひたすらにそれぞれが力を誇示し、己こそが半蔵を斃すのだと息巻いている。 風間蒼月ならば、風間火月ならば、半蔵を斃すための手段にも、誰が斃すのかなどにも拘りはすまい。もっとも、火月はあまりに卑怯な手段は好まぬであろうが―― だが、これならば。 ――……負けは、ない。 半蔵は確信した。ただそれは、半蔵が手を誤らなければの話であることもまた、理解の上だ。 右腕を、天へ掲げる。未だ睨み合う二体の意識を引きつけるために、その腕に焔を蛇のように絡ませる。 焔は、西の空に残っていた落日の残滓を掻き集めたかの如くの、瞬息の、しかし強い輝きを放った。 『ガ…ァ……』 『……フン……』 半蔵の焔に気を引かれ、二体の魔性が顔を向ける。それぞれの顔に凶暴な、冷艶な笑みが浮かぶ。 浮かぶ表情は似て異なれども、同じ悦びが、そこにはある。 半蔵を屠るという、獣性に根ざした欲望からいづる、喜悦。 炎邪は雄叫びを上げ、水邪は優雅に笑む。それぞれの腕に、焔と水が凝結する。 焔の熱と水の冷気が、風を生む。強い風に、半蔵の真紅の巻布が音を立ててはためく。 それが誘ったか、同時に二体が、駆ける。風に乗った野火の如く、堰を切った激流のように。 片膝をついた姿勢のまま、半蔵は近付く二体の足音を聞いた。躱わすことだけならばまだ、出来る。だが、半蔵の体力はもうそれほど保たない。一手躱わしても、その後を逃れることはまず不可能。 半蔵が狙うは、二体の目を欺くことだ。ほんの弾指の間で事足りるだろうそれはしかし、今の半蔵には決して容易いことではない。 焔と水が、迫る。引きつける、存分に、焔の牙が、水の刃が、その身に触れるぎりぎりの瞬間まで。 ちりちりと首筋に痛みにも似た感覚が走る。喉が、ひりつく。躱わすだけなら今だが、仕掛けるにはまだ、早い。 七分、いや八分、己の域に踏み込ませる。それに耐える。 半身が焔の熱を、もう半身が水の冷気を感じる。二河白道、ちらりと半蔵の脳裏にそんな言葉がよぎる。 ――……仕損ずれば、死。 近付く死の脅威に否が応でも己の肉体が緊張するのを感じながら、半蔵は印を結んだ。 「静音」 濃さを増していく闇に、半蔵の姿が揺らぎ、融ける。 『ナニ……!?』 消えた半蔵に炎邪と水邪は全く同時に驚愕した。 しかし、水邪の中の蒼月の意識は何が起きたかに気づいた。 ――目眩ましかっ! もし今、水邪の体を動かしているのが忍である蒼月の意志であれば、すぐさま対応することが出来ただろう。だが今その肉体を支配しているのは、水邪、青龍であった。 人に過ぎない、しかも満身創痍の半蔵の姿が消えたことに、水邪は狼狽した。狼狽してしまった。それはまた、炎邪も同じであった。 驚愕し、狼狽した二体の魔性は、そのまま激突した。焔の牙が水を喰らい、水の刃が焔を抉る。 何度目かの爆音が宵闇の大気を震わせる中、二体から数歩離れた位置にゆるりと半蔵の姿が現れる。その手には、抜き放たれた忍刀がある。 怒り、驚き、互いを喰らう炎邪と水邪は気づかない。 とん、と半蔵は忍刀を地に、突き立てた。 いん、と半蔵の内に収束した焔が、刃を伝い地へ疾る。 「天、魔、覆、滅」 焔の輪が二体を閉じこめるように地に浮かび上がる。水邪が、いや、風間蒼月が半蔵に目を向ける。 ――……貴様……っ! 瞬転、半蔵の力全てを注ぎ込まれた劫火の柱が、二体の魔性を呑み込んだ。 『――――――!!!』 轟音を裂く絶叫は、誰のものであったか―― |