九州、島原。 かつて一人の神童に率いられたキリシタン二万数千が決起し、そして、無惨な死を遂げた地。 その島原の地で、惨劇から百五十年余を経た天明八年、一つの戦いが終わった。 今、静けさを取り戻した地で、勝者は一人、佇んでいる。 筋骨たくましいその剣士の名は、覇王丸。 その全身に負った無数の傷が、戦いの激しさを物語っている。 だが今、この地は静かだった。僅か半刻足らず前まで壮絶な戦いが繰り広げられていたとは思えぬ程に、静かだった。 覇王丸は腕を組み、空を見つめていた。表情には勝利の喜びはない。険しい、とさえ言える。 「自分の力を過信したな。修行が足りねえぜ」 ぼそりと覇王丸は呟いた。己が倒した者へ向けたものとも、己自身に向けた言葉とも取れる声の響きであり、顔つきであった。 と、不意に、一つの足音が響いた。誰かが駆けてくる。 覇王丸の元へ、真っ直ぐ。 覇王丸の視線が地へと落ちた。太い眉がぐっと寄る。 足音は軽く、小刻みだ。歩幅の小さい女のものだろう。 足音の主を覇王丸が知るには、それだけで十分だった。 「覇王丸様!」 呼ぶ声は、確信を裏付けるものでしか、無い。 ――静。 心中で覇王丸は女の名を呼んだ。表情が傷の痛みの所為ではなく、僅かに歪む。 脇坂静、覇王丸の許嫁だ。もっとも、覇王丸が剣の道のために家を出たときに婚約も破棄されている。が、静はがんとして受け入れようとせず、諸国を巡る覇王丸を追い続けている。何度覇王丸がついてくるなと突き放しても、決して諦めようとしない。 傷だらけの覇王丸に気づいたか、静の足音が速くなった。 ――ここまで、来たか…… ここ最近の島原の地が危険であることは、日の本の国広く知れ渡っている。そうでなくとも、女の一人旅は危ないことこの上ない。 それでも静は島原まで来た。誰でもない、覇王丸を追って。 何故静がそうまでして後を追ってくるのか、覇王丸にはわからない。静の思慕の念を知らぬ程愚かではないが、それだけで危険を推して追ってこれるのだろうかとも思う。 さりとて、覇王丸は静が追ってくることに不快を感じてはいない。一人旅の危険を案じはするが、静が己で望んでのことならば、それは仕方がないと思っている。 だが、しかし。 「静!」 あと僅か数歩のところまで静が近付いた瞬間、覇王丸は怒鳴りつけるように静の名を呼んだ。呼んでいた、と言った方が正しいかもしれない。 静の足音が、止まった。 驚いた様子はなかった。 その名の通り静かに、静は足を止めた。 「ついてくるなと言ったはずだ、剣に女は、不要!」 覇王丸の大きな声だけが静寂にこだまする。 「覇王丸様……」 静は、覇王丸の名を呼んだ。 それだけだ。それ以上、何も静は言わない。 覇王丸の背を、静はただ見つめている。覇王丸の言葉に抗うわけでなく、覇王丸を引き留めようとするでもなく、積もり積もっているだろう恨み言を口にするでもない。 にもかかわらず、己を見つめる静の表情に寂しさの影が在ることに、覇王丸は気づいていた。 何度も繰り返したことであるが故に、ずっと昔、幼い頃から知っている娘であるが故に。 故に。 ――すまぬ、静。 覇王丸は胸の内で詫びた。だが言葉を口には、静と同じに、覇王丸もしなかった。 そのまま後ろを振り返らずに覇王丸は駆けた。 静を一人、残し。 |