荒々しく波が、岩に砕ける。 ぱっと散った白波が、花弁のように強い海風に舞う。 波の花とはよく言ったものだと、海を眺めながら覇王丸は思った。 覇王丸は、骸流島という江戸近海に浮かぶ孤島にいた。岩だらけの小さなこの島には、名もわからぬ神を奉る社があるものの禰宜一人おらず打ち捨てられている。社以外には何もなく、海の幸に恵まれているわけでもない為、普通の者が近寄ることは滅多にない。それを良いことに、この島をろくでもないこと――例えば命を懸けた仕合の地に選ぶ者がある。覇王丸もその一人だった。何度かここで、この地で強者達と剣を交えた。ある時は勝ち、ある時は敗れ、あるいは引き分けた。 だが今回は、覇王丸は一人だ。 誰かと約束があったわけでもないのに、島原での戦いの後、覇王丸の自然に足が向いたのがこの島だった。 岩場に打ち寄せる波、照りつける太陽、吹き付ける強い風、島は何も変わっていない。 足りないのは、刃が交わる音だけだ。 ――業、だな。 脳裏に浮かんだことに、覇王丸は苦笑する。 つい先日、島原の地で命懸けの戦いを終えたばかりだというのに、この島で次の戦いを夢想している己がおかしい。しかし同時に、次の為に己はここに来たのだと、覇王丸は思った。 仕合える者がいれば仕合う。いなければ、また旅に出る。そんな変わらぬ己の業と、意志を確認するために、この島に来たのだと。 「ここに、いたのね」 背後から女の声が、覇王丸の思考に割って入った。かなり近い。強い海風と潮騒の中でもはっきり聞こえることから、距離が知れる。 ――なっ……!? 驚きつつも覇王丸は河豚毒の柄に手を掛けた。気を緩めていたとはいえ、覇王丸に何も感じさせずにこの距離まで近づけるとは、ただの女ではない。 「天下に名の知れた剣豪にしては、隙だらけね」 からかうような声を掛けてくるも、女が動く様子はない。 河豚毒に手を掛けたまま、覇王丸は振り返った。 「な……っ!?」 今度は覇王丸は、はっきりと驚きの声を上げた。幾分、その顔がひきつっている。 女が美女だったからではない。確かに後頭部で結われた艶やかな長い黒髪も派手な顔立ちも十分に美しいが、覇王丸を動揺させたのは女の顔ではない。体だ。 鮮やかな唐紅の装束で包まれた、肉感的な体。 いや、包んでいると言っていいのか。雪のように白い腕も足もむき出しで、胸元も随分広く開いている。 「……寒く、ねえか」 「あなたの顔は、赤いわよ?」 目のやり場に困りながら絞り出された覇王丸の言葉に、嫣然と女は微笑んだ。 ばらっ、と音を立てて、手にしていた扇を開く。白地に日の丸が描かれた、少し大きな扇だ。 微笑む女の目に、きらりと光が踊る。 ぞくりと震えが背を走るのを、覇王丸は感じた。よく知ったその感覚に従い、その手が自然と動く。 「花蝶扇!」 鋭い声と共に、扇が女の手から飛んだ。 海風を切って飛ぶ扇は、真っ直ぐに覇王丸の顔を狙っている。 「はっ!」 抜刀と同時に、横薙に一閃。 飛来する扇は剛剣に両断され、金属音を立てて地に落ちた。 「……鉄扇か。お前、何者だ」 「骸流島に来る者、しかもあなたの前に立つ者に問うことかしら?」 ばらっ、と再び音がする。どこから取り出したのか、新しい扇が女の手で開いている。 女の顔にはやはり嫣然とした、だが剣呑な笑み。この島では、見慣れた笑みだ。 同じ種の笑みが、覇王丸の口元に浮かんだ。 面白い。 女が何を考えているのかはわからない。その素性も知らぬ。だが、面白い。 戦う理由はそれで十分だ。もはや女の格好さえ、覇王丸は気にならなくなっていた。 「女だからとて、容赦しねえぜ」 「つべこべ言わずにかかってらっしゃい!」 くるりと女の手で扇が回る。 ――来る。 「花蝶扇!」 女の手から扇が放たれた瞬間、覇王丸は地を蹴った。飛来する扇を飛び越えるように、高く、太陽を背に負う。最上段に剣を掲げ、勢いよく振り下ろす。 「うりゃぁっ!」 迫り来る刃の下で、くるりと女は身を翻した。艶やかな黒髪と、尾のように長く垂らした太い帯が大きく弧を描く。 「龍炎舞!」 女の声に、弧を描く帯が燃え上がる。炎はまさに龍の如く、覇王丸に襲いかかる。 覇王丸ももとより、この一撃で全てを決めるなどと思っていなかった。女が躱わしてくると読んでいた。だが、女は躱わすと同時に攻撃に出た。 ――ちぃっ! 覇王丸は体を丸めた。次の瞬間、熱と痛みがその全身を包み込む。 炎に包まれたまま、覇王丸は背中から岩場に落ちた。痛みに構わず転がる。転がる勢いと強い海風に、炎は吹き散らされる。 炎は覇王丸の着物と髪、皮膚を僅かに焦がしただけでなんとか消えた。焦げ臭い匂いと、ぴりぴりとした痛みに顔をしかめつつ立ち上がる。 ――そのつもりはなかったが……女と甘く見ちまったか。 舌打ちしつつ、覇王丸は剣を構える。 右にぐっと、右肩が上がるほどに腕を引いた、独特の構え。 一杯に引き絞った弓のように気と力を集中した構えは、一撃必殺の剛剣を振るう覇王丸が自然自得したもの。 「……楽しそうね、本当に」 またどこから取り出したのかわからぬ扇で口元を隠し、女は構えた覇王丸に流し目を送った。 今の覇王丸が女の色香に気を払うはずもなく、ただ怪訝な声が返る。 「あん?」 「痛そうね、その火傷」 「痛えな。幻術じゃ、ないわけだ」 「おあいにくさま」 女は扇をぱちりと閉じた。いたずらな、艶やかな顔立ちには似合わぬ表情が、露わになる。 「でも、あなたは楽しそうだわ」 「そうかい?」 「ええ」 閉じた扇を持った右手を体の前に、左腕は豊かな胸元に引きつけ、女も構える。 「参ります」 たん、と軽く地を蹴り、女は駆けた。岩場の足下の不確かさも、この女には関係ないらしい。その動きは忍に近いと、ふと覇王丸は思った。 ――捕まえるのは、やっかいなようだな。 そう思うのとは裏腹に、唇を舐めて湿す覇王丸の眼には、楽しげな色が浮かんでいた。 |