江戸は、初鰹の熱が過ぎたばかりであった。
 空は青く澄み渡り、心地よい薫風が八百八町を軽やかに吹き抜けていく。
 蒸し暑い真夏の直前の清々しいこの時期、伊賀組の住まう伊賀町は、忍の町に似つかわしくない華やかさに包まれるのが常であった。
 赤、白、紫、橙、と様々な色が町を飾り、ほのかな匂いがやわらかく町を包んでいる。
 伊賀町に住む伊賀組の者達が丹誠して育てた盆栽のつつじが、盛りを迎えるのだ。元々は江戸伊賀組の同心達が生活の足しにと育てていたのであるが、いつしか伊賀町のつつじは江戸の名物となっていた。この時期には身分や職を問わず、多くの者が見物に町を訪れる。中には、つつじの鉢を買って帰る者もいる。
 見物客の中に、服部半蔵の姿があった。小袖に袴と武士のなりをした半蔵は、初という名の若い娘に案内されている。この初の父である清三が、江戸伊賀組一のつつじ作りの名人なのだという。
「半蔵様、こちら……あら?」
 目的の地とおぼしき場所に着いたようだが、娘はきょとんと首を傾げた。その視線は、つつじの盆栽が並んだ棚がある。他と同じ棚のようだが、三段の棚の二段目の真ん中は、ぽっかりと空いていた。
 伊賀町では大きく市という体裁までは取ってはいないのだが、見物しに来る者達のため、あるいは自分達の技量を誇るためか、表通りには棚をあつらえ、伊賀組でも特に自慢のつつじを並べるのがならいらしい。
「父上、まだ来てない……もう……
 半蔵様、申し訳ありません。私、ちょっと探してきます」
 ぷうっと一つ頬を膨らますと、半蔵が応える前に娘は足早にその場を離れた。
 残された半蔵はなんとはなしに、周囲を見回す。
 つつじの時期には伊賀町に見物客が訪れることは半蔵も聞いてはいたが、見るのは初めてである。
 半蔵が思っていたよりも、見物客は多い。
 町人もいれば、小者や中間、侍もいる。侍の中には諸藩の江戸勤めの者もいるようだ。近くの村から江戸まで足を伸ばしたらしい百姓の姿までもちらほらと見える。
『我らが育てたつつじもなかなかのものですが、今の時期の伊賀町そのものも面白き様にございます。
 それをご覧になるのも、出羽への良き土産になりますかと』
 先日の任で半蔵の下についた嘉助という名の忍が、伊賀町の者であった。その者が任が終わった後、にこにことした笑みと共にそう言ったのである。時間に余裕があるときには江戸の様子を見ることにしている半蔵は、それならばと今回は伊賀町のつつじ見物に来たのであった。
 確かに面白い、と半蔵は思う。
 今ここにいる者たちのどれほども、ここが今もって忍の町であるなどと思っている者はいまい。江戸開闢(かいびゃく)の昔がどうあれ、今の伊賀町の住人はただの同心に過ぎないと思っているだろう。
 ましてや、伊賀最強の忍である服部半蔵が見物客に混じっているなど、誰が思うであろうか。
 忍の日々の成果が――例え生活の糧を得るためのものであっても――図らずも自然と人を集わせて楽しませる。そのようなこと、他の地ではまずない。
 例え図ったとしても、これほど様々な者を集わせることはそうそうできるものでもない。
 あの忍が言っていったとおり、面白い。ほんの気まぐれで来てみたが、良いものを見た、と半蔵は思う。
 もちろん、伊賀組の者が丹誠こめたつつじも美しい。
――……
 ふいと、半蔵は視線を見物客からつつじへと、向けた。
 向けた先の花は、濃い赤紫と白が斑となっている。小さな花が枝にみっしりと咲いている様は、花で作った人形のようにも見えた。艶やかな色合いだが、どことなくおかしみのある一鉢である。
 されど今、半蔵が注視しているのは実は花ではなかった。
 鮮やかな花を眺める視線の端に捕らえた、一人の侍の姿。
 四十を幾つか超えたぐらいと見える、背の高い侍であった。月代を剃っていない頭も目立つが、何より特徴的なのは左目の、刀の鍔で作られた眼帯である。江戸広しといえども、その様な風体で堂々と出歩く侍は一人しか半蔵は知らない。
――十兵衛殿。
 徳川家剣術指南役にして、公儀隠密の柳生十兵衛。役目がら、半蔵とも顔見知りであるが、向こうはまだ半蔵に気付いた風はない。腕を組み、しみじみとした体で花を眺めている。
――何故?
 十兵衛がつつじを見に来て悪いわけではないが、十兵衛が花を愛でるという話は半蔵は聞いたことはない。その点に関しては半蔵も同じであるが、とにかく十兵衛がこのようなところにいるのは珍しいことである。
 忍の性とでも言うべきか、自然と半蔵は十兵衛の姿を視界の隅に留め、様子を窺っていた。
 伊賀組の若者が、半蔵の元に早足に歩み寄ってきたのはその時であった。つつじの見物客に不審を抱かせまいとしてだろう、急いだ風を抑えてはいるが、それでも顔には緊張の色が濃い。
「半蔵様……!」
 若者の緊迫した様子に――そして当然、半蔵にも――十兵衛が気付いたのを半蔵は見た。だが今は若者の方が先と、半蔵は視線を十兵衛から外す。
「いかがした」
「清三殿が、何者かに」
 斬られた、と最後の部分は唇を動かすだけに留めて若者は言った。
――清三……
 半蔵は、つつじの棚の空白に視線を向ける。清三はそこに飾られるはずのつつじの鉢の作り手。その者が、斬られた。
「長には」
 ここで半蔵の言う『長』とは、江戸伊賀町の長のことである。
「他の者が。私は、初殿に頼まれて」
「清三は」
「医師の元へ」
「そうか」
 一つ頷き、半蔵は改めて十兵衛へと目を向けた。
 柳生十兵衛の右の明き目は、ひたと半蔵達を見据えている。つつじに向けていた目とは異なるそれは既に、「公儀隠密」の眼であった。
――…………
「……半蔵様?」
「清三の元へ、行って構わぬか?」
「はっ」
 若者の答えに頷きを返すと、今一度、半蔵はつつじの棚に目を向け、思った。
 柳生十兵衛が、ただ徒然につつじを見に来るなど、やはりそうそうあるものではない、と。

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