男は、大きくくしゃみをした。
「へっ」
 ぐしと鼻の下をこする。
――イヤなにおいだぜ。
 乾いた土埃のにおいに混じる血臭と、死臭に顔をしかめる。
 この島に上陸してから、このにおいを四六時中嗅いでいるような気がする。
 男は人生の大半を、己の剣の腕のみを頼りに、修羅道を歩んできた。自然、このにおいを嗅ぎ慣れてはいるのだが、こうも続くといささかうんざりもしてくる。
――酒でも飲んで、一息つこうって奴はいないのかねぇ。
 同意するように、ちゃぽんと腰の徳利の酒が、音を上げた。
 いささか、寂しい。
――そろそろ足しておきたいがなぁ。
 ぽん、ぽんと担いだ刀で肩を叩きながら、ぐるりと周囲を見回す。
 男のいるこの町の名は、「是衒街」。
 江戸の遙か南の海に浮かぶ流刑の島、「離天京」の色町である。
 色町と言っても、ここで売られるのは女だけではない。
 その名の通り、『是』を衒る(売る)この町には、ありとあらゆる種類の悪人がそろっている。
 そんな町だから、昼間であっても、余所者に向ける敵意、警戒の目は少なくない。  ことに、その余所者が「白髪混じりのざんばら髪の初老の男」であるのに「五尺八寸の堂々たる体躯」をしており、「白黒のだんだら模様の着物姿」で、「二尺八寸の胴田貫」を肩に担いでいるのだから、町の者が警戒しないはずがない。
 飯屋の中から、今は静かな郭(くるわ)の格子の向こうから、道ばたに寝転がった男から、路地の影から……様々なところから、老若男女、様々な視線が男に向けられている。
――まだまだ挨拶の範疇だがね。
 視線に晒されながらも、男は唇に楽しげな笑みを含んでいる。
 男の名は覇王丸。
 かつては大刀「河豚毒」を振るう流浪の剣豪として、広く名を知られていた剣士である。もっとも思うところあって数年前に一線を引き、今ではその名は半ば伝説化していた。
 ふいと、飯屋の前で突っ立っている若い侍に、覇王丸は目を止めた。
――あいつ、今日もいるのか。
 後ろ頭で一つに束ねた髪がぐるりと渦を巻いた変わった髪型の、浅葱色の羽織を羽織った侍だ。腰にはかなりの業物と見える刀が、一振り。脇差しは差していない。
 この侍にも、当然、警戒の視線は向けられている。
 それらを委細気にする風もなく、若い侍は腕を組んで軽く目を閉じている。呆れた話であるが、どうやら眠っているらしい。
 離天京に覇王丸が足を踏み入れて数日、この侍を何度か見かけたが、いつもこうだ。
 だが、その腕は佩刀に恥じぬ、かなりのものだと覇王丸は見ている。
 たとえ、起きているところを見たことはなくとも。
――大物か……大馬鹿か。
 口の中でそう呟いて、視線を前に戻したとき、どん、と覇王丸は腰のあたりに衝撃を感じた。
「あん?」
「邪魔だよ、侍!」
 威勢良い娘の声に、覇王丸は目を丸くする。
 ぶつかったのは、年の頃十五、六の娘だった。桜色の上衣がよく似合う、可憐な、それでいて凛とした顔立ちをしている。
 後ろ腰に、華奢な体には不釣り合いな大太刀をくくりつけていたのが、覇王丸の目を引く。
「すま……」
 大太刀に視線を向けたまま、それでも覇王丸はわびようとしたが、
「侍がこんなところをふらふらとしてるんじゃないよ!」
憎しみまでもが混じった怒りの声をぶつけると、娘は走り去っていった。
「……巾着切りじゃあないようだが……」
 一応、財布を改めつつ、覇王丸は首を捻る。
 前を見ていなかった覇王丸に非があるとはいえ、あそこまで激しい感情をぶつけてきたのは何故だろうか。
――それに。
 もう見えなくなった、桜色の背に、覇王丸は思った。
――物言いの割に悲しい目をしていたな。
 おそらく、本来は気の優しい娘ではないだろうか、と覇王丸は思う。
 この島、この街の者には似つかわしくない純粋な輝きが、あの娘の目にはあるのが覇王丸には見えたのだ。
 そんな娘が、何に怒りや憎しみを覚え、哀しみを目に宿すのだろうか。
――らしくねぇな。
 ばりばりと頭をかく。
 ただぶつかっただけの娘のことを気にかけるなど。
 その理由はわかっている。
 覇王丸がはるばるこの離島にまでやってきた理由である、一人の娘。
 いつも何処かしら悲しげな表情をしていたあの娘と、今の娘を重ね合わせていた……といったところだろう。
――まるで親バカだな。
 右の口の端を苦笑の形に歪め、ふと、足を止める。
「ふん」
 意識に引っかかった気配に、覇王丸は鼻を鳴らした。
 今朝からこの方、覇王丸に向けられている他愛もない敵意の中から、感じられる気配。
 何処からであるかも、何者からであるかも、その数もはっきりしない。
 覇王丸にわかるのは、その一挙一動をじっと見られていること、その視線に警戒以上の何か意図があることだけ。
――こういうのも、久しぶりだ。
 不愉快と愉快を半分ずつに、覇王丸はまた口をぐいと歪めた。
――そろそろ話をしてみるか。
 うまくけばあの娘の手がかりが得られるかも、しれない。
 覇王丸は囲む気配の様子を伺いながら、是衒街の外れへと足を向けた。

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