町の外れともなると人気はずいぶんと減るが、警戒の気配は強くなり、剣呑な雰囲気が漂っている。 視線を投げてくる連中も、がらりと様変わりする。抜き身をちらつかせるごろつきや、怪しげな丸薬を頬張る白い髪の若者、幅広の大刀を後ろ腰に吊した紫の妙な装束の若者……まだまだ青いが、纏う血の匂いは、濃い。 だが、見ている者達が変わっても、覇王丸を『見ている』気配には変化はない。 遠ざかるでもなく、近づくでもなく、ただ見ているだけの視線の、群。 つと、覇王丸は足を止めた。 ――…… 頭を動かさずに視線を巡らす。 周囲の人気に紛れて覇王丸を見る気配の更に向こうに、何かがいたような気がしたのだ。 覚えがある気配だった。だが、何者の気配なのかまではわからない。覇王丸が『それ』の存在を感じたのは、一呼吸よりも短い間のことだったのだから。 「まあ、いいさ」 ぽん、と河豚毒で一つ肩を叩くと、覇王丸は一軒の廃屋の戸をくぐった。 元がなんの建物だったかは、もはや分からないほどに荒れ果てているが、二階建てで、かなり広い。 草鞋も脱がずに三和土(たたき)から家の中に上がると、覇王丸は口を開いた。 「ここでなら話はできるだろう。 用があるなら聞いてやるぜ」 その力ある声に引きずり出されるように、気配が濃くなった。 『ほう……我らに気づいていたか』 場所も、はっきりした人数も感じさせない気配が発するくぐもった声。男であろうということ以外、感情や個性に乏しい声から伺えるものはない。 しかし、その口調そのものが覇王丸に声の正体を確信させた。 ――忍だな。 くぐり抜けてきた修羅場の中で、覇王丸は幾人かの忍と関わったことがある。その、ある時は共闘し、ある時は剣を交えた忍達の中の一人、あるいはそれが率いた者達と話し方と共通するものが、気配の放つ声にはある。 「無駄に年食っちゃいねぇよ」 『しかし、気づいていながらこのような場所に来るとは』 「……大馬鹿か、大物か、ってか?」 へっ、と覇王丸は、幾分苦笑気味に鼻で笑った。 『自覚はあるようだな』 「言われ飽きただけでね。 そんなことより、伊賀衆が何用だ」 あえて、忍の正体を限定する。 確信があるわけではないが、当てずっぽうでもない。 この島に忍が来るのであれば……と、考えたのだ。 『昨日の夜、東の森にいたな』 声は、肯定も否定もしない。言葉ではなく、声に微かに宿った殺気が、覇王丸の言葉を肯定する。 ――簡単に脚を見せるとは、下忍ばかりか。奴がいないのはありがたいが…… 口の中で小さく、覇王丸は舌打ちする。 ――幕府が動いた。遅いぐらいだが、ちいとばかし間が悪い。 「昨日はイイ星空だったな。 おめぇたちも星見してたのか?」 ことさらに軽く言いながら、覇王丸は肩に担ぎ持っていた河豚毒を、とん、と床につく。 忍達が言う通り、覇王丸は昨夜、島の東の小さな森で休んだ。その時に覇王丸も何かしらいたような気配は感じたのだが、己に向いたものはなかったので気にとめなかったのだ。 この島で気を緩めることは自殺行為だが、気を張りすぎていては、身が保たない。 『とぼけるか』 殺気が膨れ上がる。 ――やれやれ、仕方ねぇ……ん? 河豚毒を担ぎ上げようとして、覇王丸は動きを止めた。 いん、と耳の奥で音が響いた気がして。 同時に、覇王丸を取り囲んだ忍達に動揺が走り、それらの気配が凍り付く。 そして、新たな気配が現れたのを覇王丸は感じ取った。 影が凝ったような、重く、冷たい気配。 やはり忍なのか、その気配は朧で捕らえどころが無い。だが、覇王丸を取り囲む忍達とは異なり、すさまじい威圧感が後から現れた気配にはある。 ――親玉だな。奴じゃない……が。 知った気配だ、と覇王丸は思った。 少なくとも一度、会ったことがある。 ところが名が出てこない。 ――年は取りたくないもんだな。 覇王丸は苦笑し、唇をぺろりと舐めて湿した。 『退け』 声が、命じる。 よく通る、低く、どこか甘い響きのある声だ。しかし、心の感じられない声だ。 そしてやはり、覇王丸には覚えのある声だった。 それでも名が出てこない。 ――誰だったかねぇ。 呑気に覇王丸は首を捻るが、忍達は声の言葉にひどく狼狽し、動揺している。 『な、何を言われ……』 『退け。 お主らには命じたことがあったはずだ』 反論しようとする声を遮り、後から現れた声が言う。 『されど、この男は!』 『三度は、言わぬ』 『……はっ』 一瞬言葉に詰まったが、おとなしく気配はその場から去っていった。 「ふん……。 それで、俺はどうすりゃいいかね?」 『ご随意に』 ただ一つ残った気配が、答えを返す。 「ほう、そいつは太っ腹だ」 にやり、と覇王丸は笑った。だがその目には笑いはない。多くの気配に囲まれていた時と違い、ぴりりと緊張している。 ――こいつは、強い。 かちゃりと唾を鳴らし、河豚毒を担ぐ。 同時に、空気が細くなった。 己を包む空気が、細くなったと、覇王丸は感じた。 ここに立つ己と、闇に佇む気配の、『気』に。 一瞬にして周囲に無数の糸が、ぴんぴんと張り巡らされたかのような感覚。 互いの一挙一動を見張り、聞き取る、糸。 下手な隙を見せれば、あるいは言葉を誤れば、瞬時に糸は切れる。 続くは、刃の唸る音か、血臭か。 そう簡単には取られるつもりはないが、先の忍達全員よりもこの忍一人の方が、驚異。 三十年近く剣を振るってきた強者の持つ勘が、それを覇王丸に知らせる。 再び、唇を湿す。 『貴公に我らの言を飲んでもらえるとは、思ってはおらぬ』 「違いねぇ」 『なれど、我らの邪魔となると判断した時は……』 「覚悟しておくよ。 だがそいつぁ、お互い様だ」 ぽん、ぽん、と。 ゆっくり、覇王丸は二度、河豚毒で肩を叩いた。 『糸』を切らぬように。 『こちらも承知のこと。 覇王丸殿、貴公の力を知らぬ我らではない』 ――覇王丸殿、か。 「俺のことを伊賀衆が知ってくれているとは嬉しいねぇ。 お前さん、どちらさんだい? 知っているような気はするんだが、俺も年でね」 『お戯れを。まだあの頃の柳生様と変わらぬ年であろうに』 ――ん? 微かに、覇王丸は眉を寄せる。 ――『覇王丸殿』。 ――『あの頃の柳生様と変わらぬ年』。 伊賀衆が言う柳生様は、六十を越えても頭首の座を守る、柳生十兵衛より他にはない。 その十兵衛と今の覇王丸が変わらぬ年であるという、あの頃といえば。 ――こいつ…… 「あの親父と一緒にしてもらっちゃぁ困る。 六十を越えた今でも、昔と変わらねぇんだからよ」 笑ってみせ、また問う。 「俺の問いには答えてもらっていないが?」 『…………』 「いい加減に口を割んな。話したくて仕方がねぇんだろ? 思わせぶりな言葉を並べるんじゃねぇよ」 『これは……失礼』 糸が、揺れた。 ――笑っ……たのか、こいつ。 忍が。 揺れたのはその所為だと、覇王丸は、思った。 皮肉ではない。嘲笑ではない。 幽かな、笑み。 ほんの、刹那のことであったが。 そして、影からにじみ出るように、忍は姿を現した。 無意識に、微かに、覇王丸は眉を寄せる。 |