「我が名は、服部半蔵」

 名乗った忍は、深い藍の忍装束を纏い、燻した銀色の肩当てと籠手、臑当てを具し、背に忍刀を負い、頭巾と覆面で顔を隠している。
 身の丈はそれほど高くはない。年の頃は……覇王丸よりは若いと、見えた。
 それが、「服部半蔵」と名乗った。
「お前が、半蔵だと?」
 思わず、問い返す。
「いかにも」
 元の通り、心の感じられない、淡々とした口調で『半蔵』は応えた。
「俺の知っている奴じゃないが」
 声も、気配の質も、覇王丸の知る『服部半蔵』のそれではない。
 『服部半蔵』なのだから、覇王丸をたばかることは容易いだろうが、この場で『奴』がそうする理由はないはずだ。
 それに、『服部半蔵』は……
「川の名が同じとて、そこを流れる水は同じではあるまい」
「なるほど。
 水が変わった、か。そして、魔の気を宿す……お前は」
 『半蔵』が姿を現したその一瞬、この世のモノならざる気配、禍々しい気配を感じたのだ。
 目の前に立つ、この忍から。
 かつて対峙した魔の気を。
 忍が影の世に生きるといっても、彼らも人である。魔の気を宿すことなどあり得ない。
 しかし、覇王丸が知る内では、ただ一人だけ、例外がある。
「…………」
 『半蔵』は、沈黙した。肯定の意を、そこに宿し。
「そうかい」
 覇王丸の目が、細くなる。
 二十年の昔、進むべき道に迷い、迷いが魔を喚び、その魔に魅せられ、躰を奪われ、魂を闇に囚われた若者がいた。
 それが、『異変』の始まりだった。
 若者は、その父の、何もかもを賭した闘いによって、解放された。
 若者の父の名は、服部半蔵。
 今この目の前に立つ忍と同じ、名。
「……あれから二十年だ。そうなることもあるか。半蔵」
「そう、なりもうした。覇王丸殿」
「先に流れた水はどうなった」
「行き過ぎし水の先、知ることが誰にできようか」
「そうか」
 覇王丸は視線を、ふいと伏せた。
 忍と深いつきあいがあったはずもない。だが、二十年の昔に同じ異変に関わり、時には共闘し、時には剣を交えた、一時とはいえ同士であった者の消息が不明であるというのは、一抹の寂しさを覚えさせる。
――これも、年かね。
 フン、と、鼻を鳴らす。
 旅をすれば嫌でも見えてくる。
 剣の道が変わっていくことが。日の本の『国』が変わっていくことが。
 剣の道の本質は、そう簡単には変わらないかもしれない。だが、覇王丸の進む剣の道は、遠からず異質となるだろう。
 誰にでも―侍だけではない、町人にも、農民にも―広く門戸を開き、広く剣技を指南する者達が、少しずつだが現れ、しっかりと根付いていくのを、覇王丸は見てきた。
 それは何も悪くはない。だが、覇王丸の行く道とは違うのだ。
 また、幕府の目が、外を向いていくのも、覇王丸は見た。
 北ではおろしや国に備え、江戸近辺でも、異国への備えの砲台が築かれ、長崎にも、阿蘭陀以外の国の船が姿を見せるようになったという。清国では、えげれすなる国の者達が勝手を振るっていると聞いた。いずれ、この『国』にもやってくるだろう。
 時が変わっていくのを強く感じるから、かつての時を共有した者が消えゆくのが、寂しくなるのだろうか。
 フン、ともう一度覇王丸は鼻を鳴らした。
 己の心に落ちる陰を、感傷を吹き飛ばすように。
 覇王丸には、この離天京で成すべき事がある。感傷に浸ってなどいられない。
「半蔵よ、ちょいと聞かせて欲しいことがある」
「何か」
「お前さん達も目的は、覇業三刃衆だろう」
 覇業三刃衆とは、離天京を支配する謎の一団をさらに統べる者達である。その名の通り、三人で成り立っている。
 彼らが何者であるかを知るものはほとんどいない。
 覇王丸も、詳しく知っているのはその内のただ一人。
 だが、三刃衆の目的は、密やかに伝わってきていた。
 『幕府の転覆』
 半蔵の言う「柳生様」から覇王丸はそれを聞いたのである。
 だからこそ、最初の忍達に覇王丸は言えたのだ。
「伊賀衆が何用だ」と。
 幕府がこういった事態に差し向ける忍は伊賀衆、そして、『服部半蔵』と相場が決まっている。
「………………」
 半蔵は答えないが、覇王丸は構わず話し続ける。
「三刃衆ってのは参謀が一人に武神ってのが一人、それから巫女がいるってな。
 その巫女……」
「名は命」
 静かに、半蔵は覇王丸の言葉に続けた。
「飛騨、枯華院で育った娘。一説には魔の……」
「さすが、と言っておこうかね」
 覇王丸は声を遮って、言った。
「俺はそいつに用がある」
「覚えてはおこう」
「すまねぇな」
「こちらからも、一つ問う」
「昨夜のことなら、心配はいらねえよ。
 俺もすっかり耳が遠くなっちまってね。何も聞こえちゃいねぇ」
 左手で左の耳の穴をほじってみせる。
「それを聞いて、安堵した」
 声にも気配にも、安堵の様子などどこにも表れてはいないのだが。
 だが、『糸』が緩んだ。
――終いだな。
「それじゃ、俺は行くぜ」
「待たれよ」
 河豚毒を肩に担ぎ、戸口に足を向けた覇王丸を、半蔵の声が止める。
「まだ何か、あるか??」
 肩越しに、頭だけ振り返る。
「三刃衆が拠点は、天幻城。
 表からは入れぬが、裏の山の廃坑に、隠し通路があると聞く」
 覆面の下から、真っ直ぐに覇王丸を見据え、半蔵は言った。
 黒い目が、薄暗い廃屋の中でも、見えた。
「……ほぉ」
「配下の者の無礼の、詫びに」
「誘ったのは俺の方だがねぇ」
「後先は論じまい」
「これで何事もなし、か」
「そういうことに」
 頷いた半蔵の姿が、陰に、沈む。
『御武運を』
「お前さんもな」
 再び、笑んだ気配を覇王丸は感じ……
――行った、な。
気配が、ぱたりと絶えた。


 かちゃりと鍔鳴りをさせ、覇王丸は河豚毒を担ぎ直す。
 ぽちゃりと、思い出したように腰の徳利が声を上げた。
「まずは、こいつをどうにかするか」
 ぽん、ぽんと徳利を、覇王丸は叩いた。

流れ去る水
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