覇王丸は廃屋から出ると、是衒街へと足を向けた。
『三刃衆が拠点は、天幻城。
 表からは入れぬが、裏の山の廃坑に、隠し通路があると聞く』
 半蔵のこの言葉を忘れたわけではない。しかし、
――こいつを放って置くわけにはなぁ。
覇王丸はぶらぶらと歩きながら、腰で寂しげな水音を立てる徳利を軽く叩いた。
 酒のことだけではなく、日暮れが近いこともある。剣士である覇王丸が動くには、良い時間だとは言えない。
 それに、覇王丸が天幻城に背を向けたのは、時間だけが理由ではない。
――もうちょいと色々知っておいた方がいいだろうしな。
 天幻城を拠点とし、離天京を支配する覇業三刃衆。
 その内で覇王丸が知っているのは養い子である娘だけだ。他の二人はその名と役割を知っているに過ぎない。しかし娘を連れ帰る時にこの二人と対峙する可能性がある以上、もう少し知っておくにこしたことはないだろう。
――さて、どうやって調べるかねぇ。
 と、これからの算段をつけていた覇王丸の足が不意に止まった。
 いん、と空気の中の何かが収束し、糸となって張り巡らされる。
 先程服部半蔵が出現したときと全く同じ感覚だ。首筋にぴりりと痛みにも似た緊張が走る。
――……半蔵は、去ったはずだがな。そんな野暮じゃねぇはずだ……
 ゆっくりと、覇王丸は目だけを動かして周囲を見回す。
 人影はない。
 しかし、首筋の緊張感は覇王丸から去らない。
 刹那の隙も許されない強者が近くに、いる。
――次から次へと出てきやがるぜ……
 とん、と河豚毒で一つ肩を叩き、覇王丸は口の端を曲げた。不快にではない、愉快なのだ。久しく忘れていた、ぞくぞくするような緊張感の連続。二十年近く昔には、これこそが日常だった。
――引っ込んでいるよりも、こっちが俺には似合いだ。
「誰だ? 隠れてないで、出てこいよ」
 答えがあるとは思っていないが、とりあえず問いかけてみる。
『誰と問うか』
「何?」
 返った言葉に、覇王丸は眉を寄せた。声が答えたからではない。低く、深い響きのあるその声の主に覚えがあった。
 知っているのは声だけではない。この気配もだ。さっき会った服部半蔵と似ているこの気配、それはそう、あの頃に……
「まさか」
 覇王丸がその名に思い当たった瞬間、
『老いたな、覇王丸』
その目の前には、一人の男の姿があった。
 後ろ腰に短い忍刀を差し、鼠色の装束を纏った男だ。
 年の頃は五十は過ぎていよう。襟元で白いものの混じる髪を束ねており、左顔面には縦に古い刀傷がある。左目は盲ているのか光無く、虚ろだ。
 だが鳶色の右目に宿る光は鋭く、片目でもこの男が油断ならないことを示している。
 会うのは十数年ぶりだが、この目を見紛うはずはない。
 そして覇王丸は、そうか、と合点した。先の伊賀忍の気配の中に一つ感じられた、捕らえがたい、しかし確かに知った気配。それがこの男、
「はん……」
「否」
 名を呼びかけた覇王丸を、男の低い声が抑える。
「あ?」
「半蔵殿は、今しがたゆかれたはず」
「……そう、だったな」
 奇妙な気分で覇王丸は目の前の男を眺めた。
 覇王丸が知っている『服部半蔵』は、目の前に立つこの男だ。しかし、その名はもはやこの男のものではない。
 知っているのに、異なるもの。
――水は流れる、か。
 『服部半蔵』の言葉を思い返し、しかしそれでも、覇王丸は嬉しかった。
 それが同じ過去を知る者と再会できたからだと、そう感じるのは己が老いたからだと知りながらも、覇王丸は嬉しかった。
「それでお前さんは俺に何の用だ? 口止めか?」
 かける言葉も、自然と軽いものになる。
「半蔵殿が見逃した者をどうこうする気はない。
 儂はお主の知る覇業三刃衆のことに興味があってな」
「……ほおぉ」
 覇王丸は答えた男をまじまじと見た。男の答えは一応の筋は通っている。だが、忍がこうもあからさまに問いかけるなど聞いたこともない。
 しかもこの男は、かつて服部半蔵だった忍だ。
「なんだ」
 訝しげに、男が問う。
 その鳶色の明き目に浮かんだ色を、覇王丸は見逃さなかった。
「……年は誰でもとるもんだな」
 この男も己と同じなのだと思いながら、覇王丸は呟く。
「なんだ」
「いんや。
 立ち話ってのもなんだ。一杯やりながら話そうぜ」
 くるりと踵を返すと、そのまま答えを待たずに歩き始める。
 一歩遅れて男が後をついてくる気配に、覇王丸はにやりと笑った。

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