一 しのぶれど


 春の風が、陽光の、水の、山の木々のきらめきを一杯にふくんだ風が、ようやくこの出羽の忍の里にも吹き始めた。
 南の国のものに比べればいくらかの冷たさを帯びてはいるものの、北国出羽、しかも山中の里にとってはこの春の訪れを告げる風は待ち遠しいものである。山を駆け下り、里を吹き抜ける風に、里の者達もいつもより活気づいているように見える。
 そんな活気づいた里を、歩む娘が、一人。
 年の頃は十六か七か。雪国の娘らしい、肌理の細かい白い肌と、濡れた鴉の羽のような黒い髪が特徴的だ。何故か他の娘達と違い、男のような衣を纏っている。
 これでにことでも微笑めば、衣に関わらず、なかなかのたおやめと見えただろう。だが、稟、としたものを宿したその瞳のせいか、なんとはなしに近寄り難い雰囲気を娘は漂わせていた。
 名は、冴という。
 当然のことだが、伊賀衆の娘である。
 冴はとある家の前で足を止める。
 伊賀衆の中で『内』にも『外』でも最も名を知られ、また、最も秀でた力と技を持つといわれる、服部半蔵の家である。
 早くに母を亡くし、父親も数年前に亡くした冴は、以来、この家の世話になっていた。冴の父は半蔵の配下であったという。半蔵は多くは語らなかったが、相当の信頼をおいていたらしい。
 からり
 冴が戸を開くより早く、その戸が開いた。
「ん」
「ただ今戻りました」
 姿を見せた半蔵に、冴は軽く頭を下げた。
「そうか」
「どちらかへ、お出かけですか?」
 半蔵の手に忍刀があることに気づき、問う。
「綾女殿のお呼びでな」
――………?
 答える半蔵の声に、苦笑と、何かが混じったのを冴は感じ取った。いつもは滅多に見せることのない、何か楽しげな響きだ。
 しかしそれは、ほんの少しの間のことだった。すぐにいつもと変わりない半蔵に戻っていた。
「故にお主の相手は今日はできん」
「承知致しました。
 いってらっしゃいませ」
「うむ」
 頷き、半蔵は行ったことだった。
 その背を暫し見送り、冴は家に入った。
「おかえりなさい」
 渋染めの小袖姿の女の、柔らかい声が冴を迎える。
 半蔵の妻、楓である。
「ただいま戻りました」
「ありがとう」
 前掛けで手を拭きながら、楓は冴を振り返った。
 冴は楓に、里長の家への使いを頼まれていたのである。
「いえ」
 戸を閉める。
「あの」
「なにかしら?」
「綾女様は、今日はなんと」
「え?」
 きょとん、と、しばらく楓は冴を見つめた。
 この冴は、人のことを詮索することは殆ど無く、立ち入った質問をすることもない。だから今の短い言葉は、楓を戸惑わせるのに十分なものだったのだ。
 それに気づいて、冴は言葉を足した。
「先ほどの半蔵様は、何か…楽しそうな気がしましたので」
「楽しそう、ね」
 ふっと、楓の顔がほころぶ。
「はい。なんとなくそう思っただけですが」
「では、きっとそうよ。
 今日はガルフォードさんが来ているそうだから」
「ガル…フォド?」
 今度は冴がきょとんとする番だった。
 冴も『ガルフォード』なる異人を知らないわけではない。幾度かその話は聞いたことがある。
 『あめりか』国なるところから、『忍』に憧れて大きな海を渡ってきたという。それを綾女―先の出羽の里長の妻である、甲賀のくノ一だった女性―に拾われ、その指導を受けた青年。
 だが冴は、その青年のことを気に止めたことはない。ああ、そんな者がいるのか、と思っただけだ。
 しかし今日は、話が違った。
――半蔵様が異人を気にかけておられる。会うのを、楽しみにしておられる。
 不可解であり、不思議である。
「なぜでしょうか」
 疑問が冴の口を突いて出る。
「なぜ、半蔵様が楽しみに思われるのですか?」
 異人などに会うことを、なぜ。
「さぁ…なぜでしょう」
 楓は視線を天井に向けた。
 思案するようであり、冴の気を逸すためのようでも、あった。
「あの人はあまり話さないから……。
 でも」
 視線を冴に戻す。
「でも?」
「あの人はガルフォードさんを認めているようですよ」
「認めて、いる?」
 冴の表情が目に見えて硬くなる。
「ええ」
「でも」
 今度は冴が、言う。
「そう、『でも』よ」
 楓は冴の言葉を穏やかに遮った。
「だけど、『でも』だからこそ、あの人はガルフォードさんを認めていて、会うのを楽しみにしている。
 私はそう思いますよ」
「………………」
 冴は、何も言わなかった。
 家に上がり、修練に出るときの姿を整える。
 いぶし色の鉢金を額に巻き、手甲と脛当てをつける。そして小太刀を取ると、土間に下りた。
「修練に行って参ります」
「そう。いってらっしゃい」
 頭を下げた冴に、常と変わらぬ様子で楓は言った。
 冴はもう一度頭を下げると、家を出た。


 修行場への道は、いつもと違っていた。
 昨日と今日と、たいした時の差ではないというのに、昨日はいなかった『春』が、確かに訪れているのがわかる。
 風も、土も、木々も、確かに『春』を自分達の側に呼び寄せ、辺りにはその気が満々ていた
 しかしその道を歩む冴は、そんな違いに気づいていなかった。冴の目は、それらを見ていなかった。
――異人を認めるなど、異人を認めるなど……
 楓に遮られた言葉を、胸の内で繰り返す。
 冴は異人を見たことがない。話で聞いたことがあるだけである。
 だが、自分達とは肌の色も目の色も髪の色も違う者、おそらく心も違う者、そんな者が忍の技を学ぶこと、扱うこと、そして忍と名乗ることに強い抵抗感がある。
――異人などに、忍の技が使いこなせるわけがない。半蔵様に認められるわけ、ない。
 確たる理由あっての抵抗感ではない。あえて理由を言うなら、冴の忍としての強い誇りのせいか。
 そしてもう一つの理由は、微かな、嫉妬か。
 冴の力は決して低くない。だが、半蔵に一人前として認められているわけではないことを、冴は知っている。
 それなのに、異人は認められた。
――なぜ。
 いつしか冴の足は、自分でも知らず、修行場を過ぎ、もっと山奥の綾女の庵へと向かっていた。
 それに冴が気づいたのは、木々の切れ間に綾女の庵が見えた、その時。
――……………
 冴はただ、庵を見つめていたが、意を決すると歩を進めた。
――半蔵様に認められるほどの異人、どのようなものか見てやろう。
 そう思ったのは、異人への敵愾心と、若い娘らしい、純粋な好奇心のせいだろう。
 本人も気づかぬ、心なのだが。
 物陰に潜み、庵の様子を伺う。
 吹きゆく春の風を楽しむように、縁に三人、いた。
 冴から見て左手方に、半蔵。中に綾女。これはやや後ろに下がっている。そして右手方に、
――あれが、異人。
金の髪、青い忍装束の青年が、にこにこと笑っていた。冴の位置からは確認できないが、きっと青い瞳をしているのだろう。
――普通の人間と、変わらないじゃない…
 それが、冴の最初の感想だった。
 金の髪に青い瞳というから、どれほどおそろしげな容貌かと思っていたのに、どうということのない、普通の人間だった。確かに顔立ちは冴の周りの者達とは違うけれども、人好きのする、明るいよい顔だった。
――なにを考えている!
 慌てて冴は首を振った。
――あいつ、弱そうじゃない。
 にこにこと笑んでいる青年が、半蔵が認めるだけの技量を持っているとは到底思えない。
 と、青年が少し身を乗り出し、何事か半蔵に言った。笑みが消え、真剣な表情になっている。何か頼んでいる様子だ。
 半蔵は至極あっさりと頷き、脇に置いてあった刀を異人に示す。
 その口元が、ほんの僅かだが、笑んでいるような気が、冴はした。
 ふと、半蔵の視線が動く。
――あっ
 冴は身を固くする。気づかれた、と思った。どうしようかと思うが、どうしたらいいのかわからない。
 半蔵の視線が冴の方にたどり着くかと思われた時。
 異人がすっくと立ち上がり、半蔵と綾女に頷き…その姿を消した。
――どこ…!?
 背後に気配。
――!
 振り向いたそこには、青。
 冴の目は真正面から、異人のそれとぶつかっていた。
 ことん、と何かが動いた。
――……きれい。
 意識せず、そう思う。
 晴れ渡り、澄み切った空のような青い色だった。驚いたような、困ったような色が、そこに浮かんでいる。
 そしてその目は、確かに冴をじっと見ていた。


 異人に連れられて―というより、開き直った冴はむしろ異人を引き連れるように、庵の庭に姿を現した。
 不機嫌な表情である。異人などに後ろを取られたことが、腹立たしくてならないのである。
「久しいな、冴」
 楽しそうに立ち上がったのは、綾女だ。綾女は随分と冴をかわいがっている。
「綾女様」
 答える冴の表情は、少しばかり複雑だった。
 冴はこの奔放な女性が苦手なのである。生来生真面目な冴には、綾女の性格は少し疲れる。
 そして表情が複雑になる理由はもう一つ。
「どうした」
 綾女に視線を向けたところに、低い、半蔵の一言。
「あ、その……」
「ふん…。察するところ、ガルフォードが気になった、か?」
 口ごもった冴に、いたずらな響きを声に乗せて綾女が言う。
「別に、そんなことはありません!」
 図星を刺されたせいか、思いもかけず、語調が強く、やや荒くなる。
 その時、視界の隅に異人の顔が見えた。ほんの少し、その顔は淋しそうに見えた。
 ふふっ、と声を出さずに綾女は笑うと、今度は異人に言った。
「この冴は半蔵が面倒を見ている。それ故、なかなかの腕前だ」
「へぇ、それはすごいですね」
 心から感心したように異人は言ったのだが、なんだか冴は馬鹿にされたように感じた。
 それで、気まずさも手伝い、この場から去ろうとした。しかし、
「面白いものが見られる。見ていけ」
「面白いもの、ですか?」
 問い返した冴に、しかし綾女は答えず、
「半蔵、ガルフォード、一人ぐらい増えても構わぬな」
「……は」
「もちろん!」
 仕方がない、という感じで答えた半蔵と裏腹に、異人はやけに元気よく頷いた。

 庵の大きさに比べてかなり広い庭では、半蔵と異人が、向かい合って立っている。その背にはそれぞれ刀が一振りずつ、ある。
「何が始まるのですか?」
 冴は綾女に囁くように、問うた。場の空気は心無しか張りつめ、そのせいか自然と声が小さくなる。
「なかなか見られぬものよ。しっかりと見ておけ」
 綾女の声もまた小さくなっているが、楽しそうな響きがそこに宿っている。
 半蔵と異人、二人の動きは、全く同時だった。
 右足を引く。
 身を沈める。
 刀の柄に手をかける。
 それらはすべて、ほんの一呼吸の間のことだった。 冴が、たった一度瞬きした瞬間、手合わせ―いや、戦いは始まっていた。
――速いっ!
 刃と刃がぶつかる音、空を切る音、風が唸る音が立て続けに聞こえ、黒い影と青い影が走る。
 もう一度瞬きしたときには、また二人は間合いを取って、対峙していた。
 二人とも右手を背の刀の柄にかけ、釣合をとるかのように左手を身の前に構えている。よく似た構えだが、大きく違うところが、一つ。
 半蔵は上体を引き、後ろ足に体重がかかっている。
 一方異人は、前足に体重をかけ、ぐっと前のめりの体勢を取っている。
「ガルフォードめ、また腕を上げたな」
 綾女が呟く。そっけない言い方だったが、心なしか嬉しそうに聞こえた。
 冴は膝の上においた両手を、握りしめた。
 また、黒い影と青い影が走る。
「プラズマブレード!」
「爆炎龍!」
 声と共に、青い稲妻と、赤い焔の龍が、舞った。
 青と朱とがぶつかり合い、閃光が散る。
 あまりのまぶしさに、冴は目を閉じた。
「あーあ」
 あっさりとした、だが、ほんの少し悔しげな響きに冴が目を開けたのは、すぐのことだったのか、それともいくらかの時が経ったときか。
 その視界にまず飛び込んだのは、異人の笑顔だった。
 屈託の無い、明るい笑顔だ。
――……………
 何故か、冴は動けなくなった。
 もっとも、冴は自分がそうなっていることにさえ、気づいていなかったのだが。
「まだかなわないな」
 異人の言葉に、半蔵は軽く首を振った。
「いや、腕は上がっている」
 冴の拳を握る力が、強くなった。
「あとは」
「気持ち、ですね。
 わかってはいるんだけどなぁ」
 苦笑とも、諦めともつかぬ表情になる。だが、強い信念がどこかに宿った表情だった。
 それが、何故か冴の心に強く残った。


「どう思う」
 不意に半蔵がそう問うたのは、綾女の庵からの帰り道。
「え?」
「あの異人」
 足を止め、冴の方を振り返る。
「お主はどう見た」
 冴の息が、僅かに止まった。
 金の髪、青い瞳、屈託の無い明るい笑顔。
 心に小波が立つ。揺れる。
「……腕は、かなりのものと、思います」
 一言、一言、ゆっくりと、答える。
 なぜ心が揺らぐのだろうと奇妙に思い、戸惑いながら。
「そうか」
「されど」
 口早に言う。
「何故半蔵様がお認めになったのか、私にはわかりませぬ」
「認めた、か」
 ふぃっ、と半蔵は冴に背を向ける。
「認めてはいるが、認めてはいない」
「え?」
「儂にもわからぬよ」
 また、歩み出す。
「半蔵様?」
 困惑の表情を浮かべ、冴はその後を追う。
 春を運ぶ風は、強くなったり弱くなったりを繰り返しながら、気まぐれに山を駆け下りていく。
「冴」
 また不意に、しかし今度は足を止めずに半蔵が口を開いたのは、気まぐれな風がふと押し黙ったその時。
「はい」
 先ほどの困惑が解けぬまま、冴は答えた。
「ガルフォードはしばらく綾女殿の元にいるそうだ」
「は?」
 冴の困惑に拍車がかかる。
 しかし半蔵はそれ以上言葉を続けることなく、歩を進めるのみだった。
 困惑のただ中で、冴はその後を追うことしかできなかった。

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