二 色にいでにけり


 きぃん!
 冴の一撃を異人が弾き返す。
「まだっ!」
 弾かれても怯まず、次の一撃を放つ。
 それを異人はさらにさばき、踏み込む。
「くっ」
 剣の柄で胸を打たれ、冴は尻餅をついた。
「ここまでにしようか」
 言って、笑みと共に異人は手を差し出した。
「……………」
 無言で冴は立ち上がった。
「……………」
 空の手を、意味もなく異人は握り、また開き、それを幾度か繰り返す。
 どことなくさびしそーに見えるその横顔を後目に、冴は刀を収め、庵の縁に腰を下ろして汗を拭く。
 冴は初めて異人にあったその翌日から、綾女の庵に通っていた。どうしても、異人を自分自身で見極めたかったのだ。あの時の半蔵の言葉はそうせよと暗に言っていたのだろうと、思ったせいでもある。
――確かに…腕は立つ……
 そしてこの二日、実際に異人と手合わせをしてみて、その実力は認めざるを得なくなった。おそらくは伊賀衆の一流の者達と同格か、それ以上だろう。
――でも…
 半蔵との手合わせの時と、二日の間に自分が見た異人の動きを、冴は思い返す。
 力強い。
 明るい。
 きれいな動きだ。とても。
 しかしそれは、『忍』の名を負う者らしくない動きだった。忍の誰もが持っている、『何か』が、完全に欠落していた。
 忍の動き、忍の技、忍の術を使いながら、使っているのに、この異人は忍ではない。忍とはかけ離れている。
 はっきりそう思ったわけではない。だが冴は直感的に、意識の底で、そう思っていた。
「冴」
「……何」
 異人の声に、上げた冴の顔に浮かんだ表情は、無意識に硬くなっていた。
 しかし異人はいっこうに気にした様子なく、明るく言葉を続ける。
「隣、いいかな」
 流暢な日本語である。おかしな癖は一つもない。異人曰く、綾女の言葉へのしつけが非常に厳しかったせいだそうだ。
「どうぞ」
 そっけなく言いながら、立ち上がる。
「私はもう休みましたから」
「……そりゃ、どうも」
 困ったように軽く頬をかき、異人は冴の隣だった場所に腰を下ろした。手拭で汗を拭きながら、冴の方をそれとなく見る。
 仔犬のような目だと、冴は思った。かまってもらいたいのに、かまってもらえないわびしさがそこにある。
 冴はその目を黙殺した。
 しかし心の片隅がなんとなく、ちくりと痛んだような気がする。
 それを振り払うように、手裏剣を打った。
 小気味よい音が、立て続けに二つ。
 庭に立てられた的に、二本の棒手裏剣が突き立った。
 だが星からは、かなり外れていた。
 悔しくて、もう一発、打つ。
 それも、外れた。
 普段はそんなことはないのに、うまく当たらない。
「力が入りすぎてるよ」
 声の方を、反射的に向く。
 異人は腰を上げていた。冴に歩み寄り、手裏剣を持っている方のその手を、すっと、全く何気なく、自然に、取る。
「!」
 頭の中が、真っ白になった。
「ここんとこはもっと楽に持った方がいいと思う……よ?」
 ぱしぃん
 乾いた音。
 ぱちくり
 何が起こったかわからない表情で、異人は冴を見ている。
 冴は無言で、庭から走り去った。


 茫然とガルフォードは、ほんのり赤くなった自分の頬に手を置いた。
「たわけ」
「は?」
 師の声に、振り向く。いつの間にか、縁に綾女が出ていた。
「日本人は軽々しく体に触れられるのを嫌う、と言ったであろう。ことに冴はその気が強い。注意して扱わないと」
 くすりと笑う。
「そうなる」
「そうでしたね」
 ようやく気を取りなおし、ガルフォードは苦笑した。打たれた頬がぴりぴりと痛むせいで、少しばかりその笑みはひきつっていたが。
――まあ、冴の場合はそれだけではないのだが……
 綾女は笑みに隠れて、ガルフォードを見た。
――やれやれ。
「想うのは勝手だが、少しは考えて行動せよ。前に進むだけでは、おなごの心は手に入らんぞ」
「はぁ……
 って、何でその師匠そんなことを!?」
 妙にガルフォード、狼狽する。
「見ればわかる」
「あははは…」
 けろりと言われ、ガルフォードは苦笑いするしかなかった。
 その笑みを綾女は意地悪く眺めやる。
「お前も冴も分かりやすいな」
「え? 今なんて言ったんですか、師匠」
「さてさて」
 綾女はなにやらやけに楽しそうに、空とぼけたことだった。


 冴は、自分の背中を一本の木に預け、息をついた。
 異人の頬を打った手を、見る。
「……私」
 修練の時、半蔵や他の忍が、先ほどの異人のように冴の手をとって、あるいはその身に触れて指導することはある。決してよくあることではないが、異人にそうされたといって、いくら驚いたからといって、
――あんなこと、するなんて……
 なぜ自分がそんなことをしたのか、どうしてもわからない。あんな風に取り乱して人を打つような、情けないことを。
 触れられたと思った瞬間に、何もわからなくなったのだ。我に返ったのは、茫然とした異人の顔が視界に現れたその時。
 あまりにも純粋にびっくりしたその表情に、なぜかいたたまれなくなって、冴はその場から慌てて去った。みっともなく、取り乱して。
――どうして……
 冴は、異人を打った手を、異人に触れられた手を胸の前で、きゅっ、と握りしめた。
 柔弱な顔立ちのくせに、異人の手は大きかった。冴の手をすっぽりと包んでしまうほど、大きかった。
 異人の手は堅かった。厳しい修行を経た者特有の堅さがあった。
 そして、異人の手はあたかかった。
 あの瞬間は何も考えられなかったのに、あの青が目に入るまでは何も見えなくなっていたのに、あの異人の手のことは奇妙にはっきりと、覚えている。
――謝らなきゃ……
 たとえ相手がどんな者であろうが、自分の非を認めることができるのが冴である。その非を認めた上で、自分がどうすればいいのかも、ちゃんとわかっている。
 今回もそうだった。


 庭に入る前に、冴は呼吸を整える。
 軽く自分が緊張しているのがわかる。
 もう一つ、深呼吸。
「!」
 した瞬間、目に飛び込んだ青い色。
「冴」
 にこっ、とさわやかな、嬉しそうな笑みの色が、その青を彩る。
 冴は胸に溜った息を吐き、そうっと顔を上げた。
 金の髪の青年が、いる。
「いま、探しに行くところだったんだ」
「私を?」
「うん、謝りたくて」
「謝る?」
「さっきは、ごめん」
 首をかしげた冴に、青年は勢いよく頭を下げた。
「もっと気を使うべきだった。ごめん」
 言って、ひょこ、と顔を上げる。真からすまなさそうな表情を一杯にそこに浮かべて。
 仔犬のような表情だと、また冴は思った。
 許さなければ、こちらが悪いような気になってしまう。
「別に……怒って、いませんから」
 だがしかし、冴の口から出た言葉は、奇妙に硬かった。
「それより……」
「ほんと!?」
 ぱっと青年の表情が明るくなる。
「え?」
「怒ってないって、ほんとかい」
 一歩二歩と近寄りかけ、慌てて足を止めながらも、青年は嬉しそうに言った。
「うん…」
「よかったぁ」
 ほおっと息を吐いたその表情がとどめだった。
 冴は謝るきっかけを失った。

 思い出したように、風が駆け抜けた。
 運び忘れた春を、慌てて持って来るかのように。

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