雨宿・前編


 天明八年も半ばを過ぎ、秋の気配が迫ってきた頃のことである。
 『鬼』が、顕れた。
 その身の丈は七尺を越え、その巨躯にふさわしい五尺の大太刀を手にしていた。
 『鬼』は、幾人もの人を殺した。
 己の振るう刃のみで。

 その非道を嘆く者、その剣技に惹かれる者、その強さを目指す者。
 様々な者が、『鬼』を追うようになった。
 いずれも皆『鬼』を討つために。


 秋の雨が降っていた。
 激しい振りになることもなく、かといって上がる気配はまるで見せず、ただただ雨は、冷たく降っていた。
「申し訳ございません、相部屋となりますが」
 本当に申し訳なさそうに、何度も何度も、宿の娘は頭を下げた。
「いやいや、気にすることはない」
 隻眼の侍は、気遣いの言葉をかけて、娘が案内した部屋に入った。
 この数日振り続いた雨の中、宿がとれただけでも幸運なのだ。自分が何者であるかを示せば、部屋を取ることなどたやすいのだが、そういったことはこの侍―柳生十兵衛の性には合わない。
「では、ごゆっくり」
 最後に室内にもう一つ頭を下げ、娘は戸を閉めた。
 十兵衛は荷を置くと、部屋を見回した。六畳敷きのこの部屋の先客は、窓の近くに座していた。
――む?
 軽い不審に、十兵衛は眉を寄せた。
 先客は浪人とおぼしきなりの男だった。開いた窓から雨の降る外を無表情にじっと見つめており、十兵衛に気を払う様子はない。
 身なりに目立つところはない。どこにでもいそうな浪人である。だが、どうも気配が薄い。
――奇妙な奴よ。
 そう思いながら座りかけた十兵衛は、だがふと、動きを止めた。
 雨を見つめている浪人の横顔を知っているような気がしたのである。
――はて……誰であったか。
 しかし誰であるかが思い出せない。知っている誰かに似ているはずだが、思い出そうとすると似ていない気になってしまう。
――……まあ、よいか。
 立ったまましばらく考えていたが埒があかないと見切り、十兵衛は腰を下ろした。
 

 雨は休むことなく降り続いている。
 激しくもなく、静かでもなく、ただ、しとしとと。
「………………む」
 腕を組み、まどろんでいた十兵衛は目を上げた。
 浪人が十兵衛に視線を向けている。
 何か自分の意志を伝えようとするでもなく、侍に興味がある風でもない。心の内を全く表にせぬ鳶色の目が、隻眼の侍を観ている。
――この男、忍……?
 その視線に、十兵衛はそう思った。
 己の意志ではなく、人の意志で事を為す忍達が往々にしてこのような目をすることを、公儀隠密である十兵衛は何度も見て、知っている。また気配が薄いのも、忍なら納得がいく。
 しかし、十兵衛が目を開ける直前、浪人の視線には意志が宿った。だからこそ十兵衛は気づいたのである。
「何ぞ、ご用か」
 いったい何を思ってのことだろうと、十兵衛は浪人に問いかけた。不躾に見られていることに、声がいくらか不機嫌になものになっている。
 その問いにか、問いの響きにか、浪人の左眉が微かに、動いた。
「ああ」
 低い声が、浪人の口から洩れる。
 肯定とも否定ともつかないその声は、十兵衛の知ったものだった。
――……ほう。
 なるほど、と心中で合点する。
 浪人を知っているはずである。この男はもっとも大きな特徴である顔の傷だけを隠していたのだから。
 だがそれ故にこの男が誰なのかがわからなくなっていたのである。
 よく知るが故に、僅かな違いで見失う。改めて見てみれば、顔に傷がないことをのぞけば確かにこの男は、
「半蔵殿、か」
「…………」
「何用か」
 一時、己がなんと呼ばれたかを確かめるように浪人―服部半蔵は十兵衛を見ていたが、繰り返しの問いに、音もなく立ち上がった。
 先ほどまで外を眺めていた窓に歩み寄ると、障子を閉める。
 雨の音が遠ざかった。ぽっかりとした静寂が窓から室内に広がったかのようである。
 その静けさの中、半蔵は部屋の隅にあった碁盤と碁石入れを取ると、十兵衛の前に座った。
「御相手願えぬか」
「ああ、構わぬよ」
 軽い苦笑を浮かべつつ十兵衛は頷いた。


 障子戸を通して遠くなった雨音に混じって、碁石を打つ音が、その部屋に響いていた。
 柳生十兵衛が黒石。
 服部半蔵は白石。
 どちらも口を開くことなく、ただ黙々と打つ。
 つと打つ音が途切れると、決まって盤の上から全ての石が取り除かれた。
 それを何度繰り返しても半蔵は口を開かない。
 ただの暇つぶしに半蔵がこんなことを始めるはずがない。てっきり何か話があるのだと思っていた十兵衛は、少し焦れた。
「それで」
 黒石を取り除く作業を始めながら、十兵衛は口を開いた。
「うむ」
 半蔵は頷き、白石を取り除く。
 だが言葉は続かない。石を取り除きながら、何か思案しているように見える。
「ふむ……」
 半分ほど石を除いたところで、十兵衛は手を止めた。
「では儂が一つ問おう」
「……何だ」
「『鬼』のことだ」
「『鬼』だと?」
 半蔵の手も、止まった。
 視線が盤上からすいと十兵衛に向き、向いたその目が僅かに細くなった。
――む?
 十兵衛は細められたその目に動揺に似た色を見た。
 己の心中を見透かしたのかと、その目は言っていた。
――儂に声をかけた訳は、これか。
 『鬼』と半蔵に浅からぬ因縁があるらしいのは、十兵衛も知っている。しかしこれほど表に感情を見せるほどとは思いもしなかった。
 わき上がる好奇心を押さえつけ、十兵衛は黒石に再び手を伸ばす。
「五年前のあの『鬼』よ。
 大太刀で一刀のもとに人を切り捨てるその技と力は、間違いないだろう」
「そうであろうな」
 半蔵は先ほどの反応とは裏腹に、気のないともとれる声で相づちを打った。浮かんでいた動揺は、既にどこにも見えない。その手は白石を除く作業を再開している。
「だが、五年前とは違うことが一つあってな」
「『鬼』の手に掛かったものが皆、侍ということか」
 盤の上から、最後の白石と黒石が取り除かれる。
「うむ。
 しかもそれぞれがひとかどの腕を持っておった」
 十兵衛は右手で取った黒石を、左手の中に落とした。
 半蔵の顔を、見る。
 半蔵はじっと十兵衛を見ていた。表情を浮かべないそこで何があるのか推察するのは難しい。だが十兵衛は、半蔵が何か思案しているのではないかと思った。
――思案というよりは、迷いだな。
 ただの思案ならば、半蔵が感づかせるはずがない。
「それで」
 半蔵は十兵衛を見たまま、先を促した。その声に険が宿ったような気がしたのは、半蔵の心中を推察しようとした十兵衛の気まずさの所為であろうか。
「公儀から『鬼』を討つ許しを得てな」
「許し?」
「将軍家剣術指南役であり、公儀隠密である柳生に万一があってはならぬからと、『鬼』の一件に関ることを禁ぜられておったのよ。それをどうにか説き伏せてな」
「何故」
「いたずらに人を斬り、民心に不安をもたらす者を放っておいては柳生の名が泣くわ」
 些か乱暴に、黒石を十兵衛は打った。
「だが、それだけではない。
 『鬼』はかなりの強者よ。そのような者と剣を戦わせる機を逃すなど、柳生の名が許さぬ」
「……そうか」
 盤に白石を滑らせる半蔵の目に、先と似た揺れがまた、見えた。
「今は『鬼』を探す旅の途中よ。
 『鬼』のことが知りたい。教えてくれぬか」
「…………………」
 半蔵は盤の上に視線を落とした。
「五年前、『鬼』を追ったのは、伊賀衆であったと聞いている。お主がその先に立ったとも」
 半蔵の表情を伺いながら、十兵衛は黒石を置く。
「結局、行方知れずとなったがな」
 半蔵は白石を盤の上に、ぱちりと置き、言った。
 ぴん、と張られた糸のように、揺れのない声だった。
「儂は『鬼』を追い、そして」
 盤上に黒石を滑らせる。
「おそらく最も『鬼』をよく知る者の話を、聞かせて欲しいのよ」
 言って、ゆっくりと十兵衛は石から指を離した。
「裏柳生も、伊甲にそうは劣らぬよ」
 次の石を取り、一言だけ、付け加える。
「……そのようだな」
 半蔵の視線は、盤の上に注がれたままだ。
「どうであろう」
「公儀隠密としての命か」
 言葉と共に、白石を半蔵は打つ。
「いや」
「ならば」
「話せることだけでよい」
 ぱちん、と音を立てて、十兵衛は黒石を打った。
 無言で半蔵は白石を置く。
 十兵衛が黒石を置く。
 半蔵が白石を置く。
 十兵衛が黒石を置く。
 白石が置かれる。
 黒石が置かれる。
 白。
 黒。
 ぱちん。
 今度口を開いたのは、半蔵だった。
「剣を、戦わせる、か」
 低い呟きは、雨音にまぎれた。
「ん?」
「あれは、無垢な剣だ」
 十兵衛に目を向けることなく、半蔵は言った。


 「その男」に出会ったのは、二十年以上も昔、半蔵がまだ少年の頃のことであり、ある命を果たす途中のことだった。
 七尺を越える巨躯にふさわしい大太刀を振るう男だった。
 男はただひたすらに剣の道を、強さを追い求めていた。


「無垢な剣だった。
 ただ純粋に強さを求めた。強くなりたいと願っていた。
 迷いも揺れもない剣を振るう男だった」
 そう半蔵が言葉を続ける内にも、盤の上には白石と黒石が交互に、一つずつ数を増やしていく。
「ふむ」
 十兵衛は黙って頷き、ぱちりと黒石を打つ。
 おそらく半蔵が語ることが、五年前のことではないと気づいているだろう。


 いつのころからか、刀を振るう男を眺める内に、違和感を覚えるようになっていた。
 大太刀は振るわれるたびに空を切り、風を巻き上げる。生まれた風は、垣の赤い椿の花を吹き散らし、地に落とす。
 男の剣はまっすぐで鋭く、強い剣だった。
 忍である半蔵が見ていても、その太刀筋に心地よさを覚えたものだ。
 だがそれでも違和感を拭うことはできなかった。


「半蔵」
「……うむ」
 十兵衛に促され、半蔵は白石を打った。
 半蔵が石を打つと、十兵衛は問うた。
「無垢では、なくなったのか」
「………………」
「『無垢だった』とお主は言ったな」
「……人はいつまでも、無垢ではいられぬ」
 応えた己の声が掠れたのがわかった。
 あの日の記憶が鮮やかに甦る。


 赤い血の匂いが大気をいっぱいに満たしていた。
 血に落ちた赤い椿の花の中に、赤い血を流した死体が、いくつも倒れていた。
 それらが、半分だけ赤い視界の中に在った。
 血に染まった大太刀を手にした男は、その中で静かに立っていた。
 これまでにない強い威圧感を、男は放っていた。
 その時知った。
 なぜ、違和感をこの男の剣技に感じていたのかを。


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