赤とんぼ


 ぴぃ ぴぃ ぴぃひゃらら
 ぴぃぴぃひゃらひゃら ぴぃひゃらら
 とんつくとんつくとんつくとん
 ぴぃぴぃひゃらひゃら ぴぃひゃらら……

 今日は、町の八幡様の祭らしい。
 氏子の家々は軒に提灯を吊し、町を行く人々のなりも、皆どこか普段より華やかだ。
 向こうの通りでは神輿(みこし)が走り、こちらの通りではお囃子(おはやし)を乗せた屋台が行き、それらを追って歓声を上げながら子供たちが駆け回る。
 賑やかで、うきうきとした楽しそうな祭の空気が町いっぱいに満ち満ちている。
 地方によって奏でられる囃子、飾り付け、神輿や屋台の形は違っても、この祭の空気はどこであっても変わらないだろう。
 その町を、赤とんぼが群で、あるいは数匹で、一匹で、飛びいく。
 赤とんぼ達は、ついー、ついー、と、囃子に合わせるように、常とは異なる祭の空気を楽しむように、止まっては飛び、止まっては飛びを繰り返している。

――何処に行っても、祭はいいもんだ。
 久しぶりに満腹になった腹をさすりながら、覇王丸も少し浮かれた気分で町をそぞろ歩いた。
 たっぷりと飯を食い、酒を飲んだ。しかもそれはただ飯、ただ酒なのだ。
 いきさつはこうである。
 覇王丸はこの町に構えていると聞いた『神夢想一刀流』の道場に手合わせに赴いた。実は、橘右京が道場に戻ると聞いたから覗いたのだが、あいにく右京はまだ戻っていなかった。落胆する覇王丸に、道場主であり右京の師であるという黒河内左近が自分が代わりではどうだと言ってきたのだ。
 一道場の主が、門下生の知人とはいえ一介の浪人風情に『試合をしよう』と言ってくることに、覇王丸はひどく驚いた。しかし戯言ではなく、黒河内は本気でそう言ったのだ。
 戸惑いはしたものの、覇王丸は喜んでその申し出を受けた。
 道場での手合わせなので、真剣ではなく木刀を用いた勝負はよいものだった。さすが右京の師だけあって、かなりの腕だった。
 勝負はとりあえず痛み分けとなったが、黒河内は覇王丸をいたく気に入ったらしい。食事でもどうだと誘われ、覇王丸自身もこの男に興味を持ったので―ただ飯につられたことは否定できない―喜んで誘いに応じたのであった。
 そういう訳で、覇王丸はこの上なくいい気分なのであった。
 道場に帰るという黒河内と別れ、ぶらぶらと町を歩く。
――酒でも買って、祭見物といくかねぇ。
 そう思って、神社があると聞いた方に足を向ける。
 向けると同時に、一人の女の姿が覇王丸の目に入った。
 迷子の男の子をなだめているらしく、その前でしゃがんで何か言っている。
 知った顔に、覇王丸は二人に気づかれない程度の距離に近づいた。
「……男がいつまでも泣くものではありません」
 泣きやまない子供に、厳しい女の一言が覇王丸の耳に届く。
――相変わらずだな……静。
 女と男の子のやりとりを眺めながら、覇王丸は苦笑した。
 女は覇王丸の許嫁、脇坂静である。剣の道のために国も家族も捨てた覇王丸を追って、ずっと旅をしている。本来なら婚約も解消されているはずなのだが、静はそれをがんとして認めないらしい。
 静は、自分の厳しい一言にびっくりして泣きやんだ男の子に、今度は優しく言った。
「私が一緒にあなたのお母様達を探しますから、泣いてはいけません。
 あなたが泣いていたら、私には誰がお母様かわかりませんよ」
 「ね?」と微笑みかける。
 こっくりと子供は頷いた。
「良い子です。
 では、行きましょうね」
 静は立ち上がると、男の子の手を引いて歩き始めた。
 何とはなしに、覇王丸はその後を追った。
――いい顔だな……。
 子供の手を引く静の顔はとても優しく、何故か目が離せない。
――あいつ、いくつだったっけ。
 静の確かな年は忘れたが、普通の武家の娘であれば、しかるべきところに嫁いで子をなしている年のはずだ。手を引くのは他人の子ではなく、自分の子のはずだ。あの優しい顔が見つめるのは、己が腹を痛めた子のはずだ。
 静と子供の後を気づかれないように歩きながら、知らず、覇王丸はむっつりとした表情を浮かべていた。
「あ、おっかさん、おっとさん!」
 子供の声に、覇王丸は目を上げる。
 どうやら子供が親を見つけたらしい。
 その声に気づいた親らしい二人連れが、慌てて静と男の子に駆け寄ってくる。
 親は子供を叱りながら、事情を話しているらしい静に何度も頭を下げる。
 そして、子供にも礼を言うように促した。
「おばちゃん、ありがとう!」
 男の子が、ぺこりと頭を下げる。子供の高く大きな声は、覇王丸にもよく聞こえた。
 これ、と親がたしなめるが、静はいいえ、と軽く首を振り、
「今度は、はぐれないように気をつけるのですよ」
男の子の頭を撫でた。
 男の子はもう一度頭を下げると、親と一緒に祭の中に消えていく。もうはぐれないようにするためだろう、両親は子供の両の手をそれぞれが引いていた。
 そこまで見届けてから、覇王丸は静に歩み寄った。

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