跡無しの夢


 かつて、日の本の国と海を隔てた大陸には『漢』という国があった。漢は数百年に渡って大陸を支配していたが、その末期には争乱で千々に乱れていた。
 その頃の漢の都に一人の美しい娘がいた。
 娘は名を貂蝉(ちょうせん)といい、漢の大臣の養女であった。
 貂蝉は国を憂う養父の力になろうと、己の身を捧げる決意をする。
 漢を牛耳る悪辣な宰相董卓(とうたく)と、その片腕である勇猛な武将呂布(りょふ)の間を巧みに立ち回り、二人を仲違いさせようというのだ。
 この計略―連環の計―は見事に成功した。貂蝉は董卓と呂布の心を虜にし、ついに、呂布に董卓を討たせることに成功した。
 だがそれは、貂蝉の命の終わりも意味していたのである。
 事を為せば貂蝉が妻となるという約束に突き動かされた呂布は、勇んで貂蝉を迎えに行った。
 その呂布が目にしたのは、自ら命を絶った貂蝉の姿であった。
 連環の計を成功させ、奸賊を滅ぼすことが貂蝉の役目である。董卓がいなくなれば、ただの武将に過ぎない呂布に何が出来ようか。そして計を完遂し、漢に安泰をもたらすためには、呂布を二度と権力に近づけてはならない。
 例え養女であっても、呂布が大臣の娘を妻とするようなことがあってはならないのだ。
 だからこそ、貂蝉は自らの命を絶ったのだ。
 か弱き女性の身でありながら、なんという忠心、なんという誠心であろうか。
 漢の人々は、貂蝉の功を心から称えたという。


「ありがとうございます、ありがとうございます。次の公演もどうぞよろしくお願いします」
 芝居小屋の主の声が、遠くから聞こえてくる。
 その声を聞きながら、橘右京は小田桐圭を送るために、その屋敷へと向かった。
 隣を歩く圭は、芝居小屋を出てから何度も目元を袖で抑えたり、小さく溜息をつくことを繰り返している。
 きっと、先程の芝居を思い出しているのだろう。
 右京は些か複雑な想いで、圭の横顔に秘やかに視線を向けた。


 右京が圭と共に、芝居を見物したのは全くの偶然であった。
 圭は最初、供を連れていたのだが、その供が急に腹痛を起こしてしまった。そこにたまたま行き会わせたのが、右京だったのだ。
 圭は供を気遣って屋敷へ戻ろうとしていたのだが、今日の芝居を楽しみにしていた圭にそうさせるのは忍びないと、供の者は右京に代わりに芝居についていって欲しいと頼んだのである。
 小田桐家との関係も深い神夢想一刀流の門下生である右京ならば頼める、そう供は言うと、駕籠を呼んでもらって帰っていった。
 「申し訳ありません」と圭は頭を下げたが、芝居に行けることを喜んでいるのは右京にもわかった。そして、冷静に答える右京もまた、内心は天にも昇る心地であった。



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