櫻の下


 天には、朱い月が輝いていた。
 真円を描いた月は、妖しいまでに美しい。
 朱い月明かりに、白い欠片が、舞っている。
 みっしりと花をつけた、櫻の枝から、落ちる白い花弁。
 己の、あるかなしかの重みに、散り、舞う。
――あるいは、月の光が、花を散らせるのかも知れぬ。
――妖しの光が、花を誘い、己の中に花弁を舞わせるのかも知れぬ。
 花散る中を独り歩みながら、橘右京は、思った。
 そう思うほどに、花も月も妖しく、美しかった。
「……美しい」
 不意にかけられた声に、右京の足が止まった。
「月も花も、美しい。この世のものではないようだ」
 声の主は、男だった。
 満開の櫻の枝の下で、独り、櫻を月を見上げている。
 総髪を長く背に流し、蘇芳の袷と墨色の袴を纏っている。手には、鍔無しの刀を携えている。
 何処かで見た男だと、右京は思った。
「どうしてこれほど美しいか、わかるか」
 男は右京に顔を向けた。笑みを浮かべている。それがわかるのに、顔かたちははっきりとわからない。
――なにか、おかしい。
 朱い月の所為か、それとも、散る花弁の所為か。
「……何故」
 僅かに眉を寄せながらも、右京は問うていた。
「櫻の下に、私が埋めた」
――問うてはいけない。
 笑みを浮かべたままの男に、ざわざわとした、不快とも不安ともつかぬ何かが、心の中で騒ぐ。
 それでも、右京の口は開いた。
「何を」
 そうして気づく。男の手が、何かに濡れていることに。
 朱い光の中で、なお一層鮮やかな、紅。
「大切な、あの方を」
 男は濡れた手を、天にかざす。
 その手を通して見る月は、きっとより朱く見えるだろうと、右京は思う。
 白い花弁は、きっとより白く見えるだろうと、右京は思う。
「愛おしい方だ。優しく、あえかで、白い。
 あの方の微笑みに、私は何度救われたか」
 月を、花を、かざした手で透かして見つめながら、男は想いを口にする。
「しかし、この想いをあの方に告げることは、できない。
 傍にいることすら、遠くで見守ることすら、いずれ叶わなくなる……」
 こふ、と男が咳き込んだ。
 一度、二度。
 口元に当てた手から、赤い滴がしたたり落ちる。
「そしてあの方は、いつか他の男にその笑みを、向ける」
 だから。
「埋めたのか」
 問う右京の声が、低く掠れる。
 恐怖に。
 この男の言葉に、右京は恐怖する。
「埋めた」
 頷き、男は笑う。血に濡れた口元を拭うことなく、凄惨に笑う。
「故にこの花は、あの方のように美しい。
 白くて、あえかで、優しい。
 朱い月に、良く映える」
 男の髪に、右京の髪に、男の肩に、右京の肩に、白い花弁が舞い降りる。
「これで、あの方は私のものに。
 そうして、私ももうすぐ、この木の下に」
 夢見るように男は呟く。定かに見えぬその眼が、炯とした光を帯びているのが右京にはわかった。
 体を犯す病の熱に、心を犯す狂気の熱に。
「だから」
 男が、右京に体を向ける。一歩、二歩歩み寄る。右京は、動けない。
 男から漂う濃い血の匂い。それは一体誰の者か。その匂いがどこか甘く感じるのは、花の所為か。
 立ちつくす右京の横を、男が通り過ぎる。
「お前も、埋めてしまえ」
 ふわりと、男の髪から、肩から白い花弁が零れ落ちる。花弁を追うように、男の背を追うように、右京は、振り返る。
 花弁は螺旋を描き、舞い落ちていく。決して閉じられることのない、決して開くことのない、無数の円環。
 そこに立つのは己だと、右京は、悟った。

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