櫻の下


 強い風が、吹いた。

 ざぁっ、と雨にも似た音を立て、花が散る。地から、花弁が舞い上がる。
 螺旋が崩れる。
「あ」
 上がった声に、聞き覚えのある声に、右京は目を瞬かせた。
「右京様」
「け……圭殿……」
 いつ顕れたのか。
 何事もなかったかのようにしずしずと散る花弁の中に、朱い月の光の中に、その女性は立っていた。
 小田桐圭。右京の想い人であり、何ものにも変えられぬ、大切な人。
 圭の白い肌が、その身を包む青い着物が、朱い月の光に映えている。
 その姿に、右京はひどく狼狽していた。
「どうなさったのですか?」
「どう……されたのですか……?」
 同時に口を開き、同時に、答えを譲り合い口をつぐむ。
「…………」
「……………………」
 ふふ、と圭が小さく、花が開くように笑った。
 美しく、優しいその笑みに、右京は暖かいものを感じた。しかしそのあたたかさが、右京の心をざわめかせる。
「父の使いで出ていましたら、少し、遅くなってしまいました」
 右京様は? と、小首を傾げる。
「私も、少し帰りが遅く……」
「さようですか」
 頷いた圭に、右京はおかしな事に気づいた。
「圭殿、お一人ですか?」
「はい。近くですから。櫻と、月を見ながら歩いておりました」
 確かに、小田桐の屋敷まではそう遠くはない。
――それでも、このような時間に。
「それはいけません。
 お送りいたします」
 口を言葉がついて出る。若い女性がこのような時間に一人なのは良くないからだと、己に呟く。
「ありがとうございます。お言葉に、甘えさせていただきます」
 微笑んで、圭は頭を下げた。心なしかその笑みが嬉しそうに右京には、見えた。

『そしてあの方は、いつか他の男にその笑みを、向ける』

 耳元で、男の、己の声がした。
 ざわりと、心の奥の何かが一際大きくざわめく。
「右京様?」
 歩き出さぬ右京を、圭が不思議そうに見上げる。
「いえ……」
 声を振り切ろうと首を振り、右京は歩き始める。圭と並んで歩けるように、普段よりゆっくりとした歩調で。

次へ
物書きの間トップへ
物書きの間トップへ(ノーフレーム)