焦がれるは猛鷹の眼、孤狼の眼


 そこの大気は、いや、空間そのものが、ねっとりとした何かに埋め尽くされていた。
 無数に転がる屍肉から漂う腐臭。
 とろりと流れ落ちていくどす黒い血。
 何処からともなく重く低く響く怨嗟の、嘆きの、苦痛の声。
 全てが入り混じった、何かのただ中に、天草四郎時貞は佇んでいた。
 無限の色の光を放つ宝珠を、楽しげに眺めている。
 宝珠の表には、一人の剣士の姿が映し出されていた。

「弧月斬!」
 日輪の光を弾く覇王丸の刃は、赤く軌跡を描く。
 軌跡が赤く見えたのは、倒れた相手の血飛沫の所為だったかもしれない。
 覇王丸が着地すると同時に、斬られた剣士はがくりと倒れる。もう、動かない。
 勝負は、決した。

――我の読み通り。この覇王丸という男、強い。

「まだまだ……だな」
 刀を一振りして鞘に収めた覇王丸は、納得がいかないという顔で、倒れた剣士を見つめている。
 仕合には勝った。だが、己が剣の未熟さが意識される、覇王丸には満足のいかない戦いであった。
――勝ってなお力を求める、強き魂。我が良き駒となろう……
「……んっ!?」
 研ぎ澄まされた剣士の、いや、人としての本能的な危機感。覇王丸は剣に手を掛けていた。
 まさにその瞬間、大気が震える。
 世界は、一変した。
 全ては毒々しい紫に埋め尽くされ、大気はよどんでいる。その中に在るのは、覇王丸ただ一人。
「……っ」
 全身の毛が逆立つような圧迫感と威圧感に覇王丸は顔をしかめていた。
「なんだ、ここは……?」
 油断なく、周囲を見回す。
 異界に引き込まれ、驚き怪しみ、不安、不快を感じてはいるが、冷静さは失っていない。
――肝の太い。クク……
「クク、クククク……我こそは天草が怨霊。
 強き者よ、暗黒神がお呼びだ」
 喜悦の哄笑と共に、天草は自らの影を異界に出現させた。
 無数の、無限の色に輝く、禍々しき影。見る物に恐怖と絶望を覚えさせる巨大な影。並の者なら、この影を見るだけで、天草の僕となることを誓うだろう。
 しかし天草の予想通り、覇王丸は恐れることなく影を睨み据えてくる。かちゃり、と小さく鉄(かね)の音がしたのは、鯉口を切ったからか。
「天草だと? 
 ……島原の天草四郎時貞か?」
「いかにも」
――剣だけではなく、それなりの学もあるか。
「亡者が何の用だ?」
「汝は、強い。
 その力を私に貸さぬか、汝が剣技と私の魔道の力があれば、この世は思いのまま。
 それに」
 わざと言葉を切り、天草は覇王丸の様子を窺った。
 その腕に力がこもっているのが見て取れる。額には、汗も浮かんでいるか。だが、射抜かんが如くの鋭い視線だけは、揺るがない。
「我が元に来れば、汝は更なる力を得ることができるのだぞ?」
 やわらかく、甘く、誘いの言葉を紡ぐ。
「更なる力、ね……」
 不敵に、覇王丸は笑った。
「悪いが、俺は一人が性にあってるんでね」
 天草もまた、影の向こうで笑む。
――覇王丸、気に入った。なれど……無知とは哀れな……
「愚かな! 我が暗黒神に逆らうとは!!」
 怒気と共に、力の一端を解放する。影が膨れ上がり禍々しき光と瘴気を孕む颶風を放ち、覇王丸に叩きつける。
「っ……!!」
 咄嗟に腕で顔を庇った覇王丸の両眼に、恐怖が浮かんだのを天草は見とった。
 これほどの男でも、我が力の前には驚愕し、怯える。
 風と光にその身を嬲られるままが、萎縮し、動けずにいる。
――アンブロジァ様の力、なんと素晴らしい……覇王丸、汝もこの歓喜、知るがよい……
 自らの力に、天草の内に酔いにも似た愉悦が広がる。
「悔いよ、悔いよ。そして我に許しを請うがよい、覇王丸!」
 だが。

「おおおおおおおっ!」

 動けぬかと見えた覇王丸が、剣を抜きはなった。
 猛鷹の如く荒々しき眼。孤狼のごとき鋭き眼。
 最上段までその肉厚の大刀を振り上げる。それだけで大気が、颶風と邪光がおおんと喚く。
 どん、と全体重を掛けて、踏み込む。
「斬、鉄、閃!」
 一閃。
 大気が、今度は悲鳴を上げた。風が、光が、そして天草の影が、両断される。
「ククク……愚か者め……」
 両断された影が大きく揺らめきながらも、天草は嗤っていた。
「暗黒からは逃れられぬこと、身をもって知るがいい……」
 ぐるりと影が、渦を巻く。渦巻く影に光が、風が、そして紫に閉ざされた空間が呑み込まれていく。
「覇王丸、我は必ずや汝を手に入れよう……!」
 最後に声を残し、全ては消えた。
 残されたのは覇王丸、一人。
 辺りを見回せば、先程までの光景と、何も変わっていない。地に倒れた剣士も、そのままだった。
「やれやれ……おかしな奴に見込まれちまったな……」
 刀を収め、覇王丸は額の汗を拭った。ぬるりとした、冷たい汗だった。


――あれほどの男がいようとはな……
 宝珠に映し出された覇王丸の姿を見つめ、クク、と天草は喉を鳴らした。
 しかし不意に、眉をひそめる。
 肩口に走った、痛み―それは久しく忘れていた、感覚―に。
 痛む肩口に触れれば、ぬるりとした感覚があった。触れた手を見れば、熱く赤い、血潮に染まっている。
「クク……影を通し、我まで斬るか……見事な力量、そして魂の持ち主であることか……」
 ぺろりと己が血を舐める天草の脳裏には、刀を振るった瞬間の覇王丸の姿が浮かんでいた。
 覇王丸が剣を振るったのは、その内に生まれた恐怖の為。
 だが、怯えた自暴自棄の一撃ではない。
 恐怖をねじ伏せ、天草と対峙する意志を奮い起こすが為の、一撃。たとえどのような状況にあっても、前を見据える。
 覇王丸はどんな絶望の淵に立たされても、諦めはしないことを、顔を伏せないことを、天草は理解した。
 何人にも、屈することはない。まさに猛鷹、孤狼の如く強く、美しい魂。
「手に入れたい……あの魂を、あの眼差しを、あの男の全てを我が手にしたいものよ……」
 赤く染まった手で宝珠に映る覇王丸を愛しげに撫で、うっとり天草は呟いた。

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