静寂に在りし焔


 「森森(しんしん)」という。
 木が並んで茂るさまであり、木が高くそびえるさまである。
 また、威厳のあるさまであるという。
 夜の那智は、まさにその言葉で形容されるにふさわしい場所だった。
 天を貫くかのようにまっすぐに伸びる杉の群は、神聖であり、不思議でもある『威』を、粛々と漂わせている。
 そんな杉の群の奥から、落ちる水の音が響き、流れてくる。
 大滝である。
 切り立つ絶壁を、水が落ちる。
 滝もまた、『威』を、その全てから静かに、はっきりと漂わせている。
 その『威』の中に一つ、人影があった。
 身には闇色の装束を纏い、同色の覆面といぶした黄金色の鉢金で顔を隠し、首には真紅の巻布を巻いた、忍―伊賀忍、服部半蔵である。
 半蔵は、神木である一際大きな杉の木に背を預け、腕を組んで立っている。
 木々の威にも滝の威にも背くでも、身を任すでもなく、立っている。
『那智へ行け。行って、起きる事に、当たれ』
と、伊賀衆のお屋形である百地覚斗より命を受けた。詳しい説明は何一つ無く、ただ、魔性と関わりがあることだと歯切れ悪く付け加えたのみだった。
 それでも半蔵は命に従い、この地にいる。どのような命であろうと従うのが忍であり、『服部半蔵』だ。
 お屋形は『時を見た』のだろうと半蔵は思っている。
 五行五気の内、水気を強く身に宿す者の中には、先に起こることを知ることができる、《時見》という力を持つ者がいる。覚斗もその一人である。もっとも覚斗のそれは不安定な力であり、意図して何かを見ることはできず、はっきりとしたことを知ることはまれである。
 だが、見えたものが誤りとなることはまず無い。
 何かが起きるというのであれば、何かが起きる。
 殊に、天草四郎時貞、羅将神ミヅキという魔が立て続けに顕れ、世を乱した直後である。あれら二体は斃されはしたが、それで終わりだという保証はない。新たな魔が顕れる可能性は、低くはないのだ。
 だからここで、いる。何かが起きるのを待っている。
 今宵、待ち始めてかれこれ二刻は経っているが、半蔵は全く姿勢を変えず、身動き一つしない。
 休んではいない。辺りの気の変化を捕らえ続けている。
――静かだ。
 ふと、思う。
 確かに静かだ。威が全てを押し包んだ中で、滝の水音だけが響いている。そのただ一つの音が、かえって静けさを増幅しているようだ。
 こういう静けさが半蔵は嫌いではなかった。むしろ好んでいた。厳粛さと、緊張とを奥に秘めた静けさの中にいることは、不思議な心地よさを与えてくれていた。
 だが、今は違ってしまった。
 このような時、普段は決して浮かばない思いが心の表に顕れるほどに。
――何故だ。
 何が違うのか。
 何が変わってしまったのか。
――………何も、変わってなど

 ざわり

 闇が、変質する。その奥より魔の物どもが這い出てくる。
 半蔵は思考を断つ。 
 瞬転、その姿は闇に沈み、闇を駆ける。
 引き抜かれた鈍い銀が闇を裂き、ひう、と音を上げる度に魔性が一体、また一体と斃れていく。
 ごぉっと空が唸り、半蔵の左手に焔が宿った。
「爆炎龍!」
 放たれた焔が、魔性を数体まとめて焼き尽くす。
 焔の龍。風を切って飛ぶその音が、吠える声のようにも、聞こえる。
 それに魔性の絶叫が重なったその時には、半蔵の振るう刃は次の標的へと襲いかかっていた。
 魔性を喰らった焔が一瞬、紅い尾を引きながら駆けるその姿を、闇から浮かび上がらせる。
 刃を振るう影。倒れる、影。
 もしこの光景を見る者があり、どちらが魔性かと問われれば、その者は迷うかもしれない。
 それほどまでに無情に、魔性どもは斃されていった。
 だが魔性達は、倒されても斃されても、執拗に姿を現す。恐れも怯みもなく―そんな感情を持つことができるかどうかは怪しいが―じりじりと、進んでくる。
 その狙いは、
――この神木か……
 刃を振るいながら、僅かに半蔵は巨木を振り返る。
 振り返ったその先、大いなる威を備えた神木の前を、翼を広げた影が舞った。
「ピィィッ!」
 聞き覚えのある、高く鋭い声を飛翔する影が上げる。
 同時に、神木があえかな光を放った。
 放たれた澄んだ光は、森や滝と同じ威を備えている。
 だが森や滝のそれとは違い、光には優しいぬくもりがある。
 半蔵の手から焔が消え、刀を持った手が下がった。しかし半蔵は己のその様には気づかず、神木に視線を向けたまま、立ちつくす。
 完全に無防備な半蔵にしかし、魔物たちは襲いかかることはなく、光に怯え、苦痛の叫びをあげながら、その手の届かぬ闇へと逃げ惑った。
――何だ……!?
 思う間に、半蔵の背の倍ほどの位置にうっすらと影が浮かび上がる。それは見る間に濃さを増し、やがて、一人の娘の形を取った。
 形を得た影は色を取る。神木が放つ光が色に変じ、影の髪は黒く、肌は白く、纏う衣は白地に赤で縁取る。
 やがて、娘は形も色も取り戻した。
 半蔵の知った、娘だった。
 それを見取ったときには、光は全て消えていた。
 同時に、支えるものを失ったのか、ふうっと、少女が落ちる。黒い髪が消えた光にすがるように流れる。
――いかん。
 咄嗟に、半蔵は地を蹴った。
 光が消えたことで力を取り戻した魔性どもがあげる咆吼が、闇を震わせる。

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