静寂に在りし焔


 あたたかく、力強い腕に抱かれていた気が、した。
 そこは、安心できる居心地のいい場所だった。安心していい、肩の力を抜いていい場所だった。全てをゆだねていい場所だった。
 そこは、
――と……さ……?
 呼びかけようとして、気づく。
 ぱちぱちと、火がはぜる音。水の落ちる音が、その向こうから聞こえる。
 燃えるにおいがする。炎のにおい。
 その向こうに、しっとりした木々のにおい。土のにおい、水のにおい。
 それらに微かに混じる、血の、におい……
――え?
 ナコルルは目を開いた。
 火がある。ゆらゆらと踊るように揺らめきながら、燃える炎がある。
「ピィ」
「ママハハ……?」
 大切な友である鷹、ママハハの姿が火の側の岩の上に在るのを、見る。
 ナコルルが自分に気づいたことを知ると、ママハハは嬉しそうにばさりと一度、羽ばたいた。
「ここ……は……」
 最後の記憶は、恐山と和人が呼ぶ地。羅将神を名乗る魔物が在った地だ。その地でナコルルは傷ついた世界(アイヌモシリ)を癒やす為に、いま一つの世界(カムイモシリ)へ渡り……
――でも……ここは……
 神聖なる気に満ちている。だが、知らない地だ。どこに自分がいるのだろうとナコルルが考え始めた時、
「和人の地、紀伊の国の那智だ」
「え?」
 低い声に、頭を動かす。
 炎の向こうに、男がいるのが、見えた。
 闇色の装束と紅い巻布を身につけた、細い目の男。その左顔面には縦に一筋、刀傷が走っている。
 印象が、どこか鷹に似ているその男を、ナコルルは知っていた。
「半蔵、さん……?」
 身を起こし、問う。
「……ああ」
 半蔵は火を見つめたまま、頷いた。深い鳶色の瞳が、揺らめくそれを映している。
 揺れる炎は半蔵の心そのもののように、ナコルルには思えた。半蔵の内に抑え込まれた、静かなる、しかし決して消えることのない熱い焔……
 揺らめくのは、何故だろう。
 と、揺らめきが不意に消えた。
「目が覚めたか」
 その声に、炎を映していた目が、自分に向けられたことを、ナコルルは理解した。
 鳶色には揺らぎの欠片もなく、じっとナコルルを見ている。
「……は、はい……あの、私……は……?」
「あの」
 半蔵は己の左の方、やっと火の光が届いている所にそびえる巨木に目を向けて示すと、
「神木から顕れた」
「そう……ですか……」
「うむ」
 頷き、半蔵は炎の中に木切れを放り込んだ。
 ぱっと火の粉が舞い上がり、一瞬光が明るさを増す。その明かりで、半蔵がいくつか傷を負っているのにナコルルは気づいた。
 炎に照らされ、眩しげに、半蔵は目を細める。
 細めたままの目で、闇を舞い登り、消える火の粉を追う。
 遠くなる火の粉を追う、遠くなるその目には、悲しみのようであり、寂しさのようであり、何も無い色があった。
――とう……さま……?
「え?」
 刹那、半蔵の姿に、今は亡き父親の姿が重なり、ナコルルは目を瞬かせた。
「……?」
「い、いえ……」
 重なったわけがわからず、困惑しながらもナコルルは首を振る。
「それで、お主は……何故、ここに」
 その様子を怪訝に思いながらも表には出さず、半蔵は問う。これからの為に必要なことだと思う一方で、余計な事をと己を訝しみながら。
「行方知れずと聞いていたが」
「さあ……?」
 困って、ナコルルは首をかしげた。
 実際、自分でも何故、ここにいるのかはわからない。『目覚めた』ということ、その『理由』はなんとなくわかる。しかし、『ここにいるわけ』は……わからない……。
「そうか」
「半蔵さんこそ、どうしてここに?」
「命だからだ」
 いつかも、そう答えた言葉を、半蔵は返した。いつかは、違っていたけれども。
「もっとも……かようなことは思いもしなかったが」
 半蔵はまた一本、木ぎれを火の中にくべた。ぱぁっと火の粉もまた、夜闇に舞った。
 また、火の粉が消えゆくのを半蔵は見送る。
 その表情は、やはりいつかの父とどこか似ている。
 火だけをじっと見つめている眼差しを見たのは、
――かあさまを、送った、日。
 ナコルルは思い出した。
 病で死んだ母親の弔いの儀式が終わった後、残った篝火の前で一人、父親はいた。ただじっと、火を見つめていた。
 あの時、ナコルルは何もできなかった。幼い妹を見てやらなければならなかったし、何ができるか、わからなかったから。
 したいことは一つだけ、あったのだけれども。
「ナコルル」
 低い声に、ナコルルは過去の記憶と今の間で揺れていた意識を現(うつつ)に引き戻す。
「は、はい」
「…………」
 半蔵は、変わらず、火を見つめている。
 なぜかはやはりわからない。だが、似ている。
「あ、あの」
「お主があの木から顕れる前、魔性どももまた、現れた。お主を狙っていたようだった」
 火を見たまま、半蔵は言った。
「そう、ですか……
 ……まさか、半蔵さんの怪我は……」
 抱かれていたような感覚を、思い出す。守ってくれたのだろうか、と思う。
「それは、よい。
 聞きたいのは、新たな魔がまた、顕れたかどうかということだ」
「でも……」
「……怪しげな人形師が動いているとの話を聞いている。
 天草四郎や羅将神ミヅキのような魔が、顕れたのか?」
――………………
 とりつく島もない半蔵の言葉に、ナコルルは諦めると目を閉じ、意識を外に広げた。
「……はっきりとは……わかりません……でも、巨大な魔の存在がある気が……します」
 神威に満ちた地にいるからか、まだその魔が現世に顕現していないからか、感じる魔の気は定かではない。だが、在るのがわかる。天草や羅将神に勝るとも劣らない魔の存在が。
「そうか」
 頷いた己の声に安堵と疲労が混じったように、半蔵は思った。
 すぐに、十分なことを知ったが為だと、思う。新たな魔の来襲を知ることが、この地に来た目的なのだと確信した所為だと。疲労と感情が表に出たのは、負った傷の所為か。
 ナコルルもまた、半蔵の声に安堵を聞いた。
 その訳を、半蔵が哀しいからだと、寂しいからだと、ナコルルは思った。いや、思うことにした。哀しみや寂しさを、魔に向かうことで紛らわせることができるからだと。
 彼女の父が、そうだったから。
 そっと、ナコルルは立った。森の、滝の『威』を乱さないように。
 そして、炎を巡り、半蔵の隣に腰を下ろした。
「……ナコルル……?」
「こう、したかったんです」
――ずっと。
 じっと炎を見つめ、ナコルルは、そう言った。

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