回想 ―参―


 一つの回想は、次の回想を呼ぶ。
 甘い酒に導かれるように、古い時を紡ぎ出す。
 ほろほろ、ほろほろと。


 先代、八代目の服部半蔵が、綾女の元に一人の少女を連れてきたのは、二十年も前になる。
 ふわりとした優しさを感じさせる、愛らしい顔立ちの少女だった。
「惜しいな」
 少女を前にし、綾女はぽつりと呟いた。
 少女の髪は茶色で波打っており、せっかくの顔立ちの良さを駄目にしてしまっていたのだ。
「だが、それもよしか」
 きょとん、と首を傾げた少女に綾女は一つ微笑むと、うって変わって挑むような目を、にこにことしている半蔵に向けた。
「そんな目で見ることはないさね」
 怪我人なのだから、と、にこにこと半蔵は言う。
「間違いなくそのようだが、それと私の愛想は関係あるまい?」
 ゆらりゆらりと、僅かな風に揺れる半蔵の空の左袖に目をやりつつも、綾女は表情をやわらげない。
「確かに。
 ではこの娘は、よろしく頼むさ」
 にこにことしたまま半蔵は言ったが、ここまで少女の素性も何も、綾女に説明してはいない。
「拒否は」
「ならぬさ」
 半蔵は穏やかでにこやかな表情も、口調も変えることない。
 それでも綾女は言葉を続けることを諦めた。
 この男とでは、話にならない。ある意味、勝てる気がしない。綾女がそう思う、数少ない人物がこの服部半蔵であった。
「わかった」
「すまぬさねぇ」
 軽く頭を下げた半蔵を無視し、綾女は少女に再び目を向ける。
「娘、名は?」
「楓と申します」
 奇妙な緊張感のある綾女と半蔵のやりとりを意に介した風もなく、少女は答えた。
「楓か、良き名だ」
「蘇枋の、娘さ」
 一言、半蔵が付け加えた。

 綾女に引き取られた―半蔵に押しつけられたというのが正解だが、綾女は断固として「引き取った」と言い張った―楓は、くるくるとよく働いた。
 早くから起きて朝餉の支度をしたのを皮切りに、掃除、洗濯、庵の裏の畑の世話。山菜や薬草を摘み、木の実や茸を集め、と、綾女が何も言わなくても、どんどん片づけていく。
 引き取られたからその礼に、等という義務的なものではない。
 そうやって日々働いてきた繰り返しを、自然にこの地でもやっているらしい。
 綾女は楽ができるので、黙って楓に働かせていた。
 楓の手際はよく、料理も掃除も文句のつけようもなかったことも、ある。

 しかし後年、同じ事を無言で求められ、異人の少年が苦労することになる。

 楓が綾女の元で暮らすようになって幾月か経ったある日、一人の男が庵を訪れた。
「おや、珍しい」
 綾女は僅かに目を細くして、男―出羽の里長であり、自らの夫である藤林左門を出迎えた。
「久しぶりだね」
 穏やかに笑んで、左門は応えた。
「それで、今日は何用だ」
 左門と並んで縁に座り、綾女は問う。
 二人の間に、楓が茶を置いた。
「蘇枋が戻ってくることを報せに来たのだよ」
 楓に目礼をし、左門は一口茶をすすった。
「伊賀にしばらくいたのだったな」
「そうだ。
 無事『服部半蔵』の名を継いだので、戻ってくることになったのだよ」
「ほう……」
「本来ならば、もう少し後にしたかったのだがね。弥六がそれを強く望んだから、仕方がなかった。腕を失ったのもいけなかった」
 視線を湯飲みに落とし、静かな口調で左門は話す。
 弥六、それは服部半蔵が―今や、先代半蔵となった男が―『服部半蔵』の名を名乗る以前の名である。名を次の者に引き継いだ今、当然ながら元の名に戻ることになる。
「忙しくなるな」
「なに、弥六もいきなりは逃げはしないだろうさ」
 薄く笑う左門に、くく、と綾女は喉を鳴らす。
「逃がしはしないのだろう?」
「さて?
 それよりも、あの娘のことだが」
 もう一口、左門は茶をすすった。
「蘇枋のもの、と弥六は言っていたが」
「私にもそう言っていたよ。
 困ったものだ」
「やはり、難しいか」
「私とあなたほどではないだろうけれど」
 今度は肩を揺すって、心底楽しそうに左門は笑った。
「自分で笑うことはないだろう」
 言う綾女も、笑っている。
 甲賀のくノ一の女と、伊賀忍の、しかも出羽の里長の男。
 一目会ったその時に、互いしかないと確信した、あの若い日。
 世間ではよく誤解されているのだが、伊賀と甲賀は敵対しているということはない。仲が良いと簡単に言い切れる関係でもないのであるが、憎み合い、血で血を洗うほど対立関係でもない。
 そもそも江戸幕府開闢からこの方、紙の上では伊賀も甲賀も『服部半蔵』の差配の元なのであるし、更に遡れば天正伊賀の乱では力を合わせて織田信長と戦った関係でもあり、互いに互いを裏切った関係でも、ある。
 故に、互いの婚姻も許されない訳ではない。訳ではないがこの二人はいろいろと問題があった。
 結果、綾女は甲賀を抜けることとなり、出羽月山のこの小さな庵に、一人暮らしている。
 左門は出羽の里で、一人、暮らしている。里長として、左門の代わりとなる者がいなかったのだ。
 二人が顔を合わすのは、年に数回のこと。どこが夫婦なのかわからぬ暮らしだが、綾女も左門もそれに不満を見せたことはない。
「つまりは伊賀衆は楓をどうこうする気はないのだな」
「今更どうする気もない。それに弥六とあなたが後見人についているのだ。下手に手を出せようもない」
「弥六はともかく、私を怖れるか」
「それは、もう」
 申し訳なさと、おどけと、自責と、愛おしさが入り混じった複雑な色が、ちらと左門の目に浮かぶ。
 その色を見ない振りをして、綾女は腕を組む。
「後を決めるのは、あれと楓自身か……」
「そういうことだ。ということで、綾女さん、後はよろしくお願いいたします」
「私に何を?」
「さぁ?」
 首を軽く曲げ、左門はとぼけた。

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