夜光杯 ―弐―


 暗いのは闇だ。
 闇と夜とは、似て異なるものだ。
 夜だから、暗いのではない。
 闇を『夜』に見るから、暗いと思うのだ。
――それでは、何が闇を見させる?
「…………何、か」
 呟いて、真蔵は自分が目を覚ましていることに気づいた。
 静かな夜だ。
 やわらかい紗(うすぎぬ)を幾重にも重ねて音を遠ざけてしまったような、静けさ。 
 この静けさの向こうに、父がいる。
 真蔵は左手で目を覆った。
 魔に仕える巫女が討ち滅ぼされ、『真魔』が魔界に追い返されたのが、三月前のこと。
 つまり、怨霊天草四郎時貞に肉体を奪われ、魂を魔界に囚われていた真蔵が解放され、目覚めたのもまた、三月前のことだ。
――だが、それは……
 父が己の存在そのものを投げ打った戦いの末であり、母が自らの全てを真蔵に捧げたからこそのことと、真蔵にはわかりすぎるほどにわかっていた。
 その事実が、若い忍をこの三月の間、ずっとさいなんでいた。
 更に真蔵を悩ませるのは、父が何も言わないことだ。父、半蔵の真蔵への態度は『以前』と特に何が変わるでもない。口数少なく、感情を露わにすることも少ない父の胸中を真蔵は図れず、かといって問いかけることもできない。
 また、どういうわけだか里長も何も言わない。死を命ぜられることさえ覚悟していたというのに。
 里の者達もまた、半蔵が何も言わず、長も何も言わないからか、何も言わない。しばしば哀れみや同情、侮蔑、嫌悪の視線を向けられるが、それは、『以前』向けられた視線と理由がいくらか変わっただけだ。父や長の沈黙に比べれば、たいしたものではない。
――私は、どうすればいいのだろう。
 償わなければならない。だが、どうすれば償えるのか。
 母の犠牲、魔につけいられた己の愚かさ。天草の器であった時に起こした災厄。その中に消えた、無数の生命。それら全てを償うならば、己は命を絶つべきだと真蔵は思う。しかしそれでは、父の己を捨てた戦いが、母が命を賭して己を甦らせたことが水泡に帰す。
――どうすれば……
 『闇』を見つめ、真蔵は答えの出ない問いを繰り返す。

――…………

 『声』を聞いた気がして、真蔵は体を起こした。
 いや、正確には『声』ではない。少なくとも『音』ではなかった。
 闇の奥底から漏れ出でた、何か。
 秘やかに、微かに、吐息をつくように漏れたそれ。
 聞こえたのは、
――父上?
隣室、父――服部半蔵の部屋からだ。
――父上……が?
 半蔵が、『声』を?
 眠りにあってさえ、半蔵は『服部半蔵』である。
 父が深く眠っている姿を、真蔵はほとんど見たことがない。常に眠り浅く、息は静かだ。
 『声』など上げるはずも

「…………」

 呻く声が、確かにした。

 音を立てずに真蔵は立ち上がると、隣室の戸を開けた。
 戸が桟を滑る音がやけに大きく聞こえ、鼓動が速くなる。
 幸いにも、半蔵は目を覚まさなかったようだ。
 静かに、静かに、足音を忍ばせて眠る父に近寄ると、その枕元に片膝を突く。
「………」
 半蔵がまた、小さく呻いたのを、今度は確かに真蔵は聞いた。
 眠りにあってさえ表情を変えることがない父が、僅かに眉を寄せた気配をも感じる。
「父上……」
 声を抑え、恐る恐る、呼びかける。
 起こすべきなのか、このまま、何も知らなかったこととするべきか。
 どちらにも決められず、それでもただ黙って見ていることができない。見ていることが、どこか、恐ろしい。
 故に真蔵はもう一度、呼びかけた。
「父上……?」
 二度呼びかけても、半蔵は目を覚まさない。
 普段であれば、おそらくは真蔵が戸に手をかけた時点で目を覚ましているはずだ。
――どう、なされたのだ……?
 寝息が、常より僅かに速く、乱れている。そして、深い。
 えもいわれぬ恐れが、じわり、と真蔵の胸に広がる。
 三度、呼びかけようと、口を開く。
「………」
 半蔵の『声』に、真蔵の声が音となることは、無かった。
「……っ」
 息を呑み、呼びかけの言葉を呑み込み、真蔵は両の拳を握りしめる。
 父は、確かに、こう、言った。

「楓」と。

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