腕の中の存在から、生気が抜けていく。 半蔵が呼ぶ声も、もう、聞こえているかどうか。 天明九年。晩夏。 妻は、我が子を救う為に己の生命を捧げ、深い眠りに落ちていく。 半蔵にできることは何もない。 『その時』まで、ただ妻を腕に抱いているだけだ。 気配が一つ、動いた。 半蔵のいる『ここ』ではない、だがすぐ近くだ。 足音を忍ばせ、早足に。 駆け出す。 追わなければと思いながらも、半蔵は動かなかった。 ――『まだ』、終わっていない。 腕の中の妻を見つめる。 このまま側にいたい。最後まで見届けたい。 ――繰り返しに過ぎぬとしても。 己がどこかでそう呟くのを、半蔵は聞いた。 全て、覚えている。 遠くなる声も、弱くなる息づかいも、朧になる目の光も、力無い、だが、それでも優しい笑みも、何もかも。 何を言うのか、いつ目を閉じるのか、全て、覚えている。 今の半蔵が見るもの、聞くもの、触れるもの、何もかもがかつて通った道をたどるだけの夢。 そうであることを、半蔵は知っている。 何もかも、あの時より早まることも、遅れることもない。 一つとして飛ばすことはなく、何かが重なることもない。 それでも、半蔵は見ていたかった。 何より、半蔵は見ていなければならなかった。 忘れぬ為に。この何もかもを、全てを、決して、忘れぬ為に。 『……、…』 妻の声は耳にではなく、半蔵の内に響いた。 半蔵の頬に、妻の手が触れる。 ――楓……? かけられるはずのなかった言葉だ。差し伸べられるはずのなかった手だ。 だが『今』、半蔵の内に響く声と、頬に触れた手のぬくもりは、何よりも確かだった。 その確かさに、疑問を感じるより先に半蔵は楓の手に己の手を重ねていた。 『……、………、………』 ゆっくり、ゆっくりと妻は言い、優しく、微笑んだ。 昔、そのままに。半蔵の記憶にある笑顔、そのままに。 『…………、……………』 目が、開いた。 そこにあるのは、ただ、闇。 何も、ない。 夢は終わった。 いつもと違う形で。 「悪夢すら、ままならぬのか」 闇を鳶色の目に映し、半蔵は苦く呟いた。 ――それすら、許せぬのか。 ――それでも、望むのか。 「愚かよな……」 闇へ、男は言葉を投げた。 |