夜光杯 ―参―


 腕の中の存在から、生気が抜けていく。
 半蔵が呼ぶ声も、もう、聞こえているかどうか。
 天明九年。晩夏。
 妻は、我が子を救う為に己の生命を捧げ、深い眠りに落ちていく。
 半蔵にできることは何もない。
 『その時』まで、ただ妻を腕に抱いているだけだ。


 気配が一つ、動いた。
 半蔵のいる『ここ』ではない、だがすぐ近くだ。
 足音を忍ばせ、早足に。
 駆け出す。


 追わなければと思いながらも、半蔵は動かなかった。
――『まだ』、終わっていない。
 腕の中の妻を見つめる。
 このまま側にいたい。最後まで見届けたい。
――繰り返しに過ぎぬとしても。
 己がどこかでそう呟くのを、半蔵は聞いた。
 全て、覚えている。
 遠くなる声も、弱くなる息づかいも、朧になる目の光も、力無い、だが、それでも優しい笑みも、何もかも。
 何を言うのか、いつ目を閉じるのか、全て、覚えている。
 今の半蔵が見るもの、聞くもの、触れるもの、何もかもがかつて通った道をたどるだけの夢。
 そうであることを、半蔵は知っている。 
 何もかも、あの時より早まることも、遅れることもない。
 一つとして飛ばすことはなく、何かが重なることもない。
 それでも、半蔵は見ていたかった。
 何より、半蔵は見ていなければならなかった。
 忘れぬ為に。この何もかもを、全てを、決して、忘れぬ為に。
 
『……、…』

 妻の声は耳にではなく、半蔵の内に響いた。
 半蔵の頬に、妻の手が触れる。
――楓……?
 かけられるはずのなかった言葉だ。差し伸べられるはずのなかった手だ。
 だが『今』、半蔵の内に響く声と、頬に触れた手のぬくもりは、何よりも確かだった。
 その確かさに、疑問を感じるより先に半蔵は楓の手に己の手を重ねていた。
『……、………、………』
 ゆっくり、ゆっくりと妻は言い、優しく、微笑んだ。
 昔、そのままに。半蔵の記憶にある笑顔、そのままに。
『…………、……………』

 目が、開いた。
 そこにあるのは、ただ、闇。
 何も、ない。
 夢は終わった。
 いつもと違う形で。
「悪夢すら、ままならぬのか」
 闇を鳶色の目に映し、半蔵は苦く呟いた。
――それすら、許せぬのか。
――それでも、望むのか。
「愚かよな……」
 闇へ、男は言葉を投げた。

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