夜光杯 ―肆―


 くいと、勘蔵は杯を干す。
 三杯目だ。
――おもしろいな。
 夜空を見上げ、にこりと笑う。
 星が、眩しい。
 金銀砂子とはよく言ったものだと、見上げて思う。
 その代わりのように、己の周りは奇妙に昏い。
 少し酔いが回っているな、と頭の片隅で思う。
 『けれども』、と、五杯目を杯に、こぼさないようにゆっくりと注ぎながら、思う。
――つまりは、俺が……
 注がれた酒の匂いが大気にほどけるのを感じる。五杯目になるのにその匂いは衰えない。むしろ匂いはいつも新しく、前とは違う。
 杯を口元に寄せ、しばし、匂いを楽しむ。
 軽く、一口。
 甘く、それでいて清冽な液体が、すうと体に染み込んでいく。
 ちらり、と空を見上げる。
 星の輝きはまだ褪せない。さざめく音が聞こえそうなほどに、煌めいている。
 反して、己の周囲の闇は濃くなったと、勘蔵は思った。
 ことり、と杯を置く。
 代わって手に取るは、後ろ腰に差した短刀。
――そういうことだ。
 音をさせずに鯉口を切る。


 山の大気の奥に、夜闇の底に、ぴいんと糸を張ったような感覚が走るのを真蔵は逃さなかった。
――誰か、いる。
 家にいることが、半蔵の傍にいることが辛く、かといって行く当てなど無く、真蔵は一人、山の修行場へ足を向けていた。
 今宵は夜の修行をしている者もない。真蔵以外の誰かがいるはずもない。
 それでも、感じられる人の気配。
――侵入者……?
 伊賀忍の隠れ里であるこの山に忍び入ってくる者があるとは信じがたい。真蔵が聞いた限りではここ数十年、そのような大それた者はいなかったはずである。
 天草四郎時貞という名の、魔を除いては。
「……っ」
 頭を振って、真蔵は後悔に囚われそうになった己の意識を立て直した。今は、そうしている場合ではない。
 確かに感じられる、夜の気に紛れさせた何者かの気配。
 しかも相手も、真蔵に気づいている。
 気づいているからこその、この、張りつめた感覚がある。
 真蔵は夜着の裾をからげると、慎重に気配を辿った。

 勘蔵は静かに短刀を抜くと、持った手を胸にくっつけるように構えた。眩しい星の光を刃が弾き、気配の主に気づかれぬようにするためだ。
 気配は近づいてくる。
 抑え気味だが、隠そうとはしていない。
 気づいているのだ。勘蔵が向こうに気づいていることに。
 だがどこから近づいてくるかまでは、読めない。
 勘蔵は軽く目を綴じ、闇に意識を凝らして気配を追う。
――こんな時間に……修行してる奴らじゃないようだし……誰だ?
 気配は少しずつ近づいてくる。下草を、積み重なった朽ち葉を踏みしめる足音も微かに聞こえる。
――出羽の里に侵入者とは、思えないんだけどな……
 間合いを計りながら考える。
――後、三歩……一、二、さ……あれ?
 これは知った気配ではないかと、勘蔵は思った。
 思ったが、その時にはもう体は動いていた。
 どうやら少し、酔っているらしい。


 星明かりの中、男が座している。まだ若い、真蔵よりいくらか年下の……
――勘蔵?
 見覚えのある背が、任で里を出ていた弟のものだと真蔵が気づいた瞬間、影が飛んだ。
――何!?
 刃が風を切る音が聞こえる。
 真蔵を包む夜闇が濃くなる。
 飛びすさる。目の前に影が落ちる。鼻を突く、微かな酒気。
――酒?
「勘蔵!」
 鋭く、呼びかける。
 影が立ち上がると同時に下段から切り上げられた刃が、ぴたりと止まった。
 真蔵の喉笛を切り裂く直前で。
「……あはは」
 誤魔化すような笑い声が、闇に響いた。そろそろと刃が退かれる。
 真蔵の顔に掛かる息は、酒臭かった。
「……忍の三禁は?」
 ことさらに不機嫌な声で兄は弟に問うた。
「金と女と……酒。
 俺が悪かった。御免」
 かちん、と短刀を鞘に収めると、深々と勘蔵は頭を下げた。

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