夜光杯 ―伍―


「任に行った先でさ、もらったんだよ」
 兄の手に杯を持たせ、にこにこと勘蔵は言う。不機嫌そのものの真蔵の表情は見ない振りだ。
 ただ酔っているだけかもしれないが。
「もらった?」
「そう、これで」
 勘蔵は真蔵の顔の前で軽く手を振ってみせる。その手の指の間に、ぱっと四つ、小鳥の卵大の玉が表れた。
「ああ、手妻か……。それで酒とは、振るっているな」
「名主の娘さんの嫁入りの席でね」
 くるりと手を返すと、勘蔵の手から玉が消える。
「……お前、任の最中に何を……」
「堅いことは言いっこなし。任はちゃんと片づけたし、断るのも、おかしいだろ?」
 勘蔵は両手を広げて、自分の格好を真蔵に示した。
 藍の筒袖に伊賀袴、萌葱の羽織と頭巾、左の二の腕には紅の布を縛り付けている。かなり派手なこの形は、旅芸人のものだ。
 旅芸人が芸を請われて断るのは、確かにおかしい。少し納得しないものを感じながらも、真蔵は頷いた。
 それでも一言付け加えるのは、忘れない。
「……こんなところで油を売っていないで、さっさと里長に報告に行け」
「夕方に着くつもりだったんだけど遅くなったからさ、ここで一息ついてたんだよ。
 こんな時間に急いで報告するほど火急の任でもないし」
 けろりとして兄の言葉をかわすと、真蔵の手の杯に酒を注いで「ほらほら」と勘蔵は促した。
――酒、か。
 暫く真蔵は揺れる酒を見つめていたが、目を細くすると一息に杯を干した。今は、真蔵も少し飲みたい気分だ。
 水菓子のような甘みと、さらりとした口当たりの飲みやすい酒だ。それほど酒が好きではない真蔵だが、この味は気に入った。
「甘口だけど、美味しいだろ? 兄上はこっちの方が口に合うと思うんだけどさ」
「……確かに、美味い」
 頷き、杯を勘蔵に差し出す。
 嬉しそうな顔で、勘蔵はもう一杯注いだ。それが兄が酒を美味いと言ったからなのか、追及をかわせたからなのかは、真蔵には図りかねた。
 輝く月と星の下、はらりと小さな影が落ちていくのが勘蔵の肩の向こうに見える。
 蒼白い光に映える、赤い葉。
「紅葉か」
「うん。
 もう、こんな季節なんだなぁ。任に出た頃は、まだそんな気配はなかったのに」
「ああ」
 真蔵はまた一息に杯を干す。
 また一枚、赤い葉が散る。
 螺旋を描き舞うその葉が地に落ちる、まさにその瞬間。
 こう、と風が吹いた。
 風が、赤い葉をさらう。闇に。

「このようなところで、酒盛りか」

 声が、した。
 低く深く、そして冬の大気のように冷ややかな声が、闇から響く。
 気配はない。ただ声だけが在る。よく知った、声だけが。
 びくり、と兄の体が声に反応をして震えたのを、勘蔵は感じた。
 耳の奥で、いん、と何かが鳴る。光が瞬時に遠ざかる、そんな感覚が走る。
 真蔵が、杯を置く。
「随分と気楽なものだ」
 草を踏みしめる音と共に、漸く気配が二人の後ろに現れる。
 真蔵と勘蔵は、ゆっくりと振り返った。
 青白い月光がぎりぎり届かない位置に、人型の影が一つ。
 ゆうらり、と鮮やかな深紅が月光に伸びる。
「!」
 音もなく飛来したそれを、真蔵は受け止めた。
 弾みで、かちゃりと音がする。
 手の中のそれが何であるかを認識すると同時に、真蔵はその場を飛び離れた。
 紅の尾を引き、青白い月光を裂いて、闇が、疾る。真蔵を、追う。
 真蔵も何度も見た姿だ。
 一人の忍として『服部半蔵』に従った時に。
 天草四郎時貞に肉体を奪われ、『父』の敵としてその前に立った時に。
――父上……!
 真蔵は手にしたそれ、投げ渡されたそれ―一振りの忍刀を引き抜いた。
 理由はわからないが、父、服部半蔵は真蔵に殺気を向けている。
 ひう、と空が鳴く。考えるより速く、地を転がる。刃がたった今自分がいたところを薙ぐのが見える。すぐさま跳ね起きる。右手に刀を、左手に鞘を握ったまま、低く身構える。
 相手は、服部半蔵。僅かなりとも気を抜けば、死ぬ。
 そうできれば。真蔵は思う。父の手にかかって死ぬことができればと。
 己では命を断てぬ。この命は父と母によって救われたもの。
 だが、父自身に殺されるならば。それならば。
――……それなら、ば。
 そう思いながらも、真蔵は精神を研ぎ澄ませていた。闇に潜む父の気配を求め、追った。

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