夜光杯 ―陸―


 勘蔵は一人、左手の中で杯をもてあそびながら、胸の前で右の掌を上に向けた。
 ぼっ、と掌の上で小さな焔が踊り、勘蔵の姿を闇から浮き上がらせ、闇を勘蔵から遠ざける。
 ろうそくの明かりほどの小さな焔だったが、青い月明かりに慣れた勘蔵の目には、その朱い光は眩しい。
――……仕方ない、よな。
 父の殺気は本物。その意図は分からない。だが、父が兄を殺そうとするならば、そこには何か理由がある。
「……けど」
 やるせない想いに、低く呟く。
 周囲の闇に感じる、二つの気配。その間に張り巡らされた無数の糸。殺気、戸惑い、視線、研ぎ澄ました精神からなる、糸。
 そこに、勘蔵はいない。
「……っ」
 ぐっ、と焔を握りつぶす。闇が、勘蔵を包み込む。
 赤い木の葉が、すう、と空の杯に落ちた。

 不意に、朱い光が生まれた。それが何か、と思う間も無く真蔵の体が動く。
 朱の光の中に、走る刃の影。
 ぎん、と重く刃が噛み合う。
 振り下ろされた刀を、ぎりぎりのところで真蔵は受け止める。
 ふっと、刀に掛かる重みが僅かに弱くなる。
 空が唸る。真紅が、弧を描くのが見える。
 右。
 地を蹴り、海老のような姿勢で後ろへ飛ぶ。
 鼻先を土の匂い、草の匂いが掠める。
 どっと尻餅をつく。間を置かずに再び地を転がる。
 朱い光の中に紅が舞う。赤子の手の形をした葉の影が、舞う。
 転がりながら膝立ちになり、気配を伺う。ゆっくりと、立ちあがる。
 闇が、濃くなったと真蔵は思った。
「爆炎龍!」
 その闇を裂くように、龍が跳ねた。父の繰る、焔の龍。その向こうに微かに、足音。気のせいかもしれない、だが、父は来る。
 真蔵は地に身を躍らせる。刀を持ったまま右手を地につく。片腕一本を支点にぐるりと回る。
 ごお、と焔の龍が脇をすり抜けるのが、回る視界に見える。
 その後に続く、紅い尾を引く影。
 真蔵の足が地につく。すぐさま、目に焼き付いた紅を追う。
 空を裂いて何かが飛来する。左手に持った鞘を振るう。かん、と音がしてそれが落ちる。
 月明かりに、星明かりに、真蔵は紅が揺らめくのを見た。
 背後に気配を感じ、咄嗟に右手の刀を振るう。手応えはない。空しく刃は空を切る。
 しまった、と真蔵は思った。
 直後に、首筋にひやりとした感覚が走る。
――僅かでも動けば、首が落ちる。
 確信でもなければ、推測でもない。
 少なくとも、真蔵にとっては、それは事実だった。
――死ぬ、のか。
 ぎ、と真蔵は唇を噛んだ。
 悔しかった。
 死への恐れも、罪悪感も無い。
 ただただ己の未熟さが、悔しくてならなかった。

 誰かがふわりと、笑んだ気が、した。

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