夜光杯 ―漆―


 真蔵が首筋に感じていた刃の感覚が、消えた。同時に真蔵の足から力が抜ける。どうしようもなく情けなかったが、立っていることができずに真蔵はへたへたと座り込んだ。
 一方勘蔵は、兄と父の間に張り巡らされた無数の糸が消えたのを、感じていた。
 半蔵が刀を鞘に収める音が、夜闇に響く。
「……父、上?」
 きょとんと、真蔵は子供のような顔で父を見上げた。
 応えずに、半蔵はその隣に腰を下ろすと乱暴な手つきで鉢金を、そして覆面を外した。
 月光に露わになったその顔を、真蔵は不思議な気分で見つめる。
 何度も見たことがある父の姿であるのに、初めて見るような気がしている。
 鷹を思わせる鋭い顔立ち。
 左顔面に走る、古い刀傷。
 鳶色の目には……寂寞とした、影。

 一つ、深く、半蔵が息をつく。

 真蔵も勘蔵も聞いたことがない、重い吐息だった。
 半蔵は己の左肩に右手を置く。
 その唇が、動いたように真蔵は思った。
 空を音にならぬ声が震わせたと、勘蔵は思った。
「儂には」
 ぼそりと、半蔵は呟いた。
 それが二人が感じた言葉と同じかどうかはわからない。
「お前達の想いを背負う余裕は、無い」
「……」
「儂は、己の想い一つで、手一杯だ」
「父上……」
 真蔵は父の姿を見、その声を聞く。
 勘蔵は握った己の拳に目を向けたまま、声を、聞く。
 最初で最後かも知れぬ、父の胸の内を、聞く。
「なれど、な」
 そう言って、半蔵は息子二人に顔を向け、笑んだ。とても、幽かに。
 苦く、無理をしているのがわかるそれが、真蔵にはひどく懐かしく、優しいものに思えた。
 それを見ることなく、ただその気配を感じただけの勘蔵も、同じく。
 半蔵は言った。

「聞く耳ぐらいは、在る」

「父上」
 勘蔵は立ち上がると、無造作に半蔵の背に杯を投げた。
 半蔵は顔も向けずに右手で杯を受け止める。
 ひらりと一葉、赤い葉が落ちる。くるくると螺旋を描き、星明かりの中を静かに落ちていく。
「飲みませんか。
 良い酒です」
「…………」
「父上」
 立ち上がり、刀を鞘に収めて真蔵も言う。
 二人とも、半蔵と酒を飲みたいと思った。今の父と、酒を飲みたいと。
 今少し、この父の傍にありたいと。
 紅葉(もみじば)が、半蔵の肩に落ちる。
「……もらおう」
 ぼそりと低く、半蔵は答えた。

「父上、兄上」
 戻ってきた杯に酒を注ぎながら、勘蔵が口を開いた。
 二人の視線が向けられたのを感じながら、ただ杯に視線を留める。
 杯に満ちた酒に、天で輝く月が揺れる。
 僅かの陰りも無い、青白い真円を見つめ、勘蔵は言った。
「次は、俺だからな」
 一息に酒を飲み干す。映った月をも飲み干すがごとく。
 半蔵と真蔵は、顔を見合わせた。

 そして父と兄は、我が子に、弟に、頷きを返した。
                            終幕

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