回想 ―弐―


 出羽、月山の深くにある、綾女の小さな庵からもまばゆい銀の月はよく見えた。
 綾女は庵の縁で一人、杯を傾けていた。
 一刻ほど前に、任の帰りに寄った勘蔵が置いていった酒だ。
「母上がお世話になっていますから」
 そんな風に言っていた。
――隠さずに物を言うのは、母親と同じよな。
 水菓子のように甘い酒を口にし、綾女は庵の奥を見やった。
 我が子を現世に甦らせるため、己の命と魂を削りに削り、身代わりのように深い眠りに落ちた母親が、そこにいる。
 勘蔵の父と兄なら、ああもはっきりと楓のことには触れられまい。
――やはり、勘蔵の方が楓に似ておるな。
 顔形は驚くほどに、父、半蔵の若い頃に似ているというのに。
――あの二人は……
 皮肉とも、苦笑ともつかぬ笑みを、綾女は浮かべた。
 思い返すは、あの日のこと。


 ぼろぼろだった。
 満身創痍だった。
 驚きよりも、感心に近い奇妙な感慨を抱いて綾女は、服部半蔵を見た。
 半蔵は鉢金も覆面も、肩当ても鎖帷子も身につけていない。おそらくは身につけていられぬほどに傷み、壊れてしまっているのだろう。
 それは、半蔵の体のあちこちに巻かれた包帯や、傷を手当した跡、それに半蔵の纏う忍装束や、首の真紅の巻布の傷み具合から、容易に想像できた。
――『服部半蔵』が、これほどまでの傷を、負うのか。
 恐山で、魔物との大規模な戦いがあったことは綾女も知っている。
 伊賀や甲賀の忍達が、幕府の命を受け、あるいは伊甲の長のそれぞれの判断によってその地に向かったほどだ。
 彼女の弟子の青年―金の髪に青い瞳の忍―も、その戦いに赴いた。
 だが、この服部半蔵の姿以上に、綾女にその戦いの凄惨さを伝えるものはない。
「終わったのか」
「は」
 低く、半蔵は答えた。
 重く、乾いた声で。
「真蔵は」
「……あれに」
 僅かに頭を動かし、後方を示す。
 白い忍装束の若者が、ひっそりと立っていた。母親そっくりの顔を苦悩と自責の色で曇らせているが、それでも真っ直ぐに綾女を見、軽く頭を下げた。
「そうか……」
 よかったな、とは綾女は言えなかった。真蔵の表情が、半蔵の声が、そして半蔵の腕にある女の姿が、その言葉を阻んだ。
「は」
 答える半蔵の声は、やはり重く、力無い。
「どうした」
「お頼みしたいことが、一つ」
 半蔵は、腕に抱きかかえている妻に、目を向けた。
 楓は眠っているらしく、半蔵の胸に頭を寄せ、目を閉じていた。
 綾女はそれまで、怪我でもして歩けぬからだろうと思っていたが、その時初めて、そうではないと気づいた。
 たとえ怪我をしていようが、病に冒されていようが、楓が、綾女の前で眠ったままでいるはずがない。
「どうしたのだ」
「楓を、あずかっていただけませぬか」
「どうしたのだ」
「……しばらくの間で、構いませぬ故」
「どうしたのだと、聞いている」
 腕を組み、綾女は一向に訳を語ろうとしない半蔵に厳しい眼差しを向けた。

「…………お頼み申します」

 半蔵は頭を下げた。
 綾女の視線から、逃れるかのように。
「勝手なものだな」
 冷ややかに、綾女は言い放つ。怒りがはっきりと、その声に表れている。
「己が妻を預かれと言いながら、訳も話さぬか。
 私はそれで預かるほど、お人好しではない」
 半蔵の肩が、震えた。訳を話したくないと、その肩が言っている。
「………………」
 頭を下げたまま、半蔵は言葉を発しない。
「………………」
 綾女はじっと半蔵を睨み付ける。
 語られずとも、大体の事情は察することはできる。
 半蔵は昨年から、ある理由のために己を捨て、戦い続けた。その理由は、同じ事を楓にさせる、楓の理由にもなる。
 綾女は、離れた位置に立つ若者に目を向けた。
 真蔵は沈痛な表情で父の背を見つめている。綾女が自分を見ていることには気づいていない。
 視線を、半蔵に戻す。
 半蔵が語らぬのは、真蔵がいる所為か。それとも、他の訳か。
「お前の口から、話して聞かせよ。
 楓は何をしたのだ」
「……せめて、庵に上げてはいただけませぬか。
 さすれば……」
 躊躇い、半蔵は言葉を切った。
 だがすぐに、口を開く。
「さすれば、全てをお話しいたします」
「よかろう。玄関に回れ。水を出そう」
 半蔵を見据えて綾女はそう言うと、視線を半蔵に置いたまま言葉を続けた。
「真蔵は、戻れ」
 はっ、とした顔で真蔵が綾女を見た。
「戻れ」
 半蔵の声が、綾女の言葉を繰り返す。
 それを聞きながら、綾女はくるりと三人に背を、向けた。


「着替えをさせてやる程度の気も働かぬか」
「………………」
 上がり口に腰を下ろし、綾女に背を向けた半蔵から答えは返らない。
 綾女はそれを気にすることなく楓の服を変え、顔と体を拭いてやると、床に寝かせた。
「さて。
 話せ」
「容赦の、無い」
 半蔵の声は低かったが、殊更に綾女に聞かせようとする響きが、あった。
 皮肉の色さえも窺えるその言葉は、いつもの半蔵の物ではない。
「今更何を言うか。それを承知で……いや」
 棘も、怒りも、冷たさもなく、静かに綾女は、言った。
「それを求めてここに来たのだろう」
「……どうでしょうか」
「さっさと話せ」
 力無い声に、今度は棘を含ませて綾女は言った。
「は」
 低い声を一つ返すと、半蔵は上がり口から上がり、綾女の真正面に腰を下ろした。
 感情薄く、心を見せぬいつもの顔を綾女に向けると、半蔵は恐山で何があったかを語り始めた。
 闇の巫女が斃され、現世にいでようとしていた巨大なる魔がその世界へ返されたこと。
 それにより、魔界に囚われていた真蔵の魂が解放されたこと。
 だが、あまりにも長く肉体を離れ、魔界に在った魂には、肉体に戻る力がなかったこと。
 我が子を救うため、楓が自らの命と魂を真蔵に分け与えたこと。
 そして、力を使い果たした楓が、いつ目覚めるとも知れぬ眠りに落ちたこと。
 それらを、一切の感情を廃し、僅かも揺れを見せることなく、半蔵は話し終えた。
「……そうか」
「は」
 話し終え、ようやく半蔵は僅かに視線を伏せた。
「お前に立ち合わせぬのが、楓らしいな」
 眠る楓に、綾女は人には滅多に向けぬ、優しい眼差しを向けた。
「わかった。男所帯で楓の世話をするのは難しかろう。暫し、私が引き受けよう」
「かたじけない」
「ただし、いつまでもというわけにはいかぬぞ」
 視線を綾女は半蔵に戻した。もうそこには、優しさは微塵もない。
「……承知……しております」
「では戻れ。後で勘蔵にでも楓の着物を持って来させよ」
「わかりました……」
 頷いた半蔵が、ほんの僅か、戸惑いの表情を浮かべる。
 期待していたことを外された、そう、その刹那の表情は言っていた。
「……私の気性を知っておろう? お前の思うままになど、なりはせぬ。
 それに」
「わかっております」
 半蔵は、綾女の言葉を遮った。
「勝手を申しました。後刻、勘蔵を使いにやります」
 そういったときの半蔵は、完全に常の「服部半蔵」の顔に戻っていた。

 それから、一刻。
 使いに来たのは真蔵だった。
 楓の着替えなどを綾女に渡した後、何度も真蔵は頭を下げ、帰っていった。
 綾女は最初から最後まで、無言で応じた。

 誰がそうしたのか、わかってはいたのだが。

「言わねば、男にはわからぬのか……」
 苦笑、というよりは、困った風に笑いながら、綾女は庵の中を振り返った。

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