序 闇月


 月は、今にも満ちようとしていた。
 青白く柔らかい光を月は投げ下ろし、地はそれを優しく受け止め、全てはまるで水の中のような色に染まっていた。
 だが、その柔らかい光も届かない場所、欝蒼と茂った木々の枝が頑固に光を遮った闇の中、二人の忍が対峙していた。
「どうあっても、と言われるか」
 背の高い、大柄な体躯の男が言った。頭をかきながら言った言葉には、あきれと諦めが同居している。
「もとより。ここでの話も無駄なことであると最初からゆうておろうが」
 白い髭の翁が、下からじろり、と長身の忍を睨み上げる。
 顔色一つ変えずに長身はその視線を受け止めると、ふぅ、と息を吐き、言った。
「まあ、わかってはいたがなぁ」
 あからさまなまでの嘲笑の響きがそこにはあった。
「なんじゃと…?」
 老いたりといえども、忍は忍。長身の忍からすれば小さくも見える老体から、すさまじい気迫が放たれる。
「これはけじめよ。
 もう二度とあんなものは見たくないのでな」
 なだめるような、嘲るような、笑み。
「!」
 一歩後退った老忍の顔に走ったは、明かな恐怖。
 笑みの中から放たれた冷やかな視線は、殺気を宿していた。
 この老忍の心胆を寒からしめるほどの。
「一五○年前の借り、きれいにお返しする」
 もう一つ、老忍に笑みを投げると、長身の男はくるりと背を向けた。
 ゆっくりと、歩む。ことさら、ゆっくりと。
 ざわり。
「……待てっ」
 ざわめいた気配に、老忍は動揺を残したまま、制止の声をかけた。
「しかし、老っ」
「よい…ゆかせい…」
 追ったところで、この者達がどうこうできるはずもない。それがこの老忍には痛切にわかる。
 格が、余りにも違いすぎる。
「老……!」
 憤りの声が、闇の中から上がる。
「我らが長の決定はすでに下された。それに儂らは従うのみ。
 わかったら、退けい」
 一息に言うと、老人は身を翻し、その場を、去る。
 先の忍が去ったのとは丁度逆の方向に。


「御無事で」
 闇からの声に、長身は足を止めた。
「それはどっちのことだ?」
「さて?」
 微かな苦笑は、忍ばせていながらも、長身に聞かせるためのものだ。
 いささか憮然としてみせながら、長身は気配に手を伸ばす。
 溜息と共に、徳利が手渡される。
 にこにこと、ことさら嬉しそうにしながら一口、長身は徳利をあおった。
「例のものは」
 口を軽く拭って、長身は問う。
「もうしばらくお待ちを。宮との話はついております」
「そうか。
 風間の動きは」
「それですが」
 声に、軽い緊張が走る。
「なにか」
「風間より、抜け忍が出たとの報告が入っております」
「……ほう」
 興味深そうに、長身は一つ頷いた。
「こたびのことと、関わりがあるか?」
「明確にはわかりませぬが、『雛』と関わりがあるらしいとのこと」
「わかった」
 ふう、と風が駆け抜ける。
「かねてからの手はず通りに進めておけ」
「はっ」
「行け」
 闇の気配が、消える。
「さてと、どうするかな」
 呟き、男はもう一口、酒をあおった。

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