真円に近づいた月が、天頂で輝く夜だった。 その月の光の下を、風間火月は必死で駆けていた。 真っ赤な短い髪が走る風になびき、揺れ、まるで炎のようにも見える。太い眉毛と大きな三白眼が特徴的だ。普段ならおおらかな笑みをはじめとする、様々な感情が浮かぶ顔だが、今は焦りで歪んでいる。 急がなくてはならない。 急がなくては、妹の、葉月の身に何が起こるかわからない。 ――葉月…どうか、どうか無事でいろよ………! 元気だった妹が突然体調を崩したのが五日前。原因不明の高熱に襲われ、寝込んでしまった。それから二日、今から三日前、神隠しのように妹は姿を消した。 だが、長は、無情にも諦めよと言った。まるで何かを知っているかのように。 そんなことはできるはずもない。 かけがえのない、一人きりの妹だ。 おてんとうさまのように笑う、可愛い妹なのだ。 見捨てることなどできようもない。 だから、火月は里を抜けた。それが何を意味するか知っていながら、抜けた。妹を救うことができるなら、この身がどうなろうと知ったことではない。 行く当てもなく、ただ、妹を探して、妹を救うために、火月は旅立ったのである。 駆ける足をさらに速める。 ひゅっ! 何かが耳元を掠めた。 「!」 思わず足が止まる。背後で、水が弾けるような音が一つ。いや、弾けたのだ。間違いなく。 「……………………」 ぎり、と歯を噛みしめる。 それに答えるかのように、火月から数間の間を開けて水柱が一条、噴き上がった。 水柱は青い月光にきらめき、飛び散るしぶきは、それ自らが光を放っているように見える。 刹那、水柱は崩れ、砕けるように消える。 水柱が消えた後には、男が一人、立っていた。 青みがかった髪の下に、氷の彫像のような、冷たくも美しい、無表情な顔がある。 男の目は静かに火月を見つめていた。 「兄、貴………」 唸るような声を火月は喉から絞りだした。 そう、男は火月の兄、蒼月であった。 「兄貴…」 もう一度、弟は兄を呼ぶ。 だが答えはない。 兄は腕を組んだままじっと、弟を見据えている。 感情は、そこには、ない。 「見逃してくれ、頼む、兄貴!」 たまらず、火月は叫んだ。 蒼月は腕をとくと、やっと口を開いた。 「それは…できません」 そこから流れ出たのは冷たい一言。 故意に言葉を途切れさせる話し方が、言葉の冷たさを増している。 気押されたように火月は息を呑んだが、ぎり、と歯を食いしばると一歩足を踏み出し、叫んだ。 「葉月の命がかかってるんだぞ、兄貴、わかってるのか!」 「関係…ありませんね。 私の役目は…掟を破りし者の、始末」 「兄貴………!」 悲痛な声で火月は叫ぶ。 「言いたいことは…それだけですか」 蒼月は腰の刀に手をかける。 「あんたって人は!」 こおっ 火月の怒気が風となって蒼月に叩きつけられた。 「構えなさい。死にたくないならば……葉月を助けたいならば、この私を倒しなさい」 火月の怒気などまるで気にした風もなく、身構えた蒼月の体から、冷たい殺気が立ち昇る。 「………くっ」 一歩、二歩、火月は後退る。 「逃げられ…ませんよ」 火月の背後に、音を立てて水柱が噴き上がる。 「構えなさい…火月。 葉月を、救いたいのでしょう?」 「兄貴……兄貴よぉっ!」 弾けたように火月は蒼月に飛びかかった。 「甘い」 一歩踏み込んで火月の二の腕をさばき、鳩尾に拳をたたき込む。 ひゅぅっ、と火月の喉が鳴った。 肺から全ての空気が絞り出されるような感覚に、頭の中が真っ暗になる。 膝が、がくん、と崩れる。 「終わり…です」 ひゅんっ、と風が鳴る音。 ――兄さん! 泣き出しそうな妹の、葉月の顔が、真っ暗な頭の中に、浮かんだ。 ――……葉月! 地を蹴り、鳩尾にめり込んだままの蒼月の拳を支点に、ぐるんっ、と体を回転させる。 「……なっ!」 蒼月の声。ちょうど膝裏に冷たい感覚。それと同時に頭が真下に向いたのがわかる。 「だあっ!」 足を曲げてそれを絡め取り、思いっ切り地に両の腕をつき、飛んだ。 一瞬の抵抗を感じたが、何かが落ちる音と同時に、火月は宙に飛んでいた。 くるりと一回転し、地に降り立つ。 膝をつき、火月はようやく激しく咳込んだ。肺が空気を求め、痛みをあげる。 咳込む中、地に落ちたそれが月光に鈍い光を放つのが見えた。 露を宿した、一振りの刀。蒼月の刀、青竜。 抜き放てば雫が舞い、その刀身は水晶のような透き通った輝きを宿す、風間の二振りの宝刀の一つ。 ――……くそぉ…… 信じることができなかった。 信じたくなかった。 兄が、自分を殺すなど、妹を見捨てるなど、あるわけがないと思って…いや、そんなこと考えたこともなかった。しかし地に落ちた刀は、確かに自分に振り下ろされたもの。 「くそぉ…くそぉ……チクショォォォォォッ!」 火月の後ろ腰に佩いた刀が、焔に包まれる。 蒼月の青竜と同じく、風間の二振りの宝刀のもう一振り、朱雀。 その刃には朱き炎熱をまとい、触れるもの全てを焼きつくす。 「やっと…わかりましたか。 世話の焼ける…」 ただじっと、火月を見ていた蒼月は低く呟くと、身構えた。 怒りに身を震わせ、火月は蒼月を睨みつけている。 その体からも、熱気が噴き上がっているのが、蒼月にはわかる。 その熱気が凝り、小さな焔に姿を変え、火月の頭の側を舞い始める。 災炎。火月の真の力…の一端、を引き出す、鍵になるもの。 一つ、二つ、三つ。 三つ目の災炎が現れたのを見届けた瞬間、蒼月は飛んだ。 「行きますよ、火月!」 「ちっくしょおおおおおおおおおっ!」 焔の朱と、水の青が、激突した。 「火が不利だな」 草原を見下ろせる丘に立つ男の目には、激しく戦う朱と青が映っている。 激しく燃えさかる朱を冷たい青が切り裂き、奔流となって襲いかかる青を朱が焼き払う。 一見互角のようだが、僅かずつ、朱が押されいるのが男には見て取れる。 朱の心に揺れが見える。本気ではない。本気になろうとしているが、本気になりきれない。 「水剋火だな。しかしまだ、火に倒れられるわけにはいかんな」 呟き、男はぐいと徳利をあおった。 「うおおおっ!」 「浮月」 突進する火月の目の前に、ふわりと水の球が出現する。 「くっ!」 とっさに足から滑り込み、水の球を躱わしつつ、蒼月の足を狙う。 「……ひとぉつ!」 火月の全身が紅蓮の焔に一瞬、包まれたかのように見えた。 しかし、蒼月の足を蹴りつけたと思った瞬間、その姿が水と化して崩れ落ちる。 ――月隠れ……しまっ……… 「どこを…見ているのです」 背後に水柱と共に、現れる気配。 「終わりに…しましょう、火月!」 両の腕を広げ、蒼月は舞うようにくるりと回る。 「月昇、水柱波!」 その回転に合わせるように蒼月の周囲ぐるりに幾本もの巨大な水柱が噴き上がる。月光にきらめくそれは、美しくも恐ろしい、死神の手だ。 だが。 轟っ! すさまじい音と共に土砂の柱が吹き上がり、火月に襲いかかる水の牙を打ち砕く。 「なにっ!?」 蒼月の顔に、動揺の色が浮かんだ。 土の焼けたにおいが、微かに鼻をつく。 「おのれ……!」 ふわりと宙に舞い、落ちていた刀、青竜を取る。 火月の気配が逃げ去るのがわかる。 だが、追えない。 芝居がかっていると思えるほどに、あからさまな気配を感じる。殺気ではないが、油断できないものがある。その気配の主がいま邪魔をした者に違いない。 「出てきなさい、そこにいるのはわかっています!」 高速回転する水の球、月輪波が、蒼月の手から飛ぶ。 パシィンッ! 叩き落とされるように、それが砕けた。 「…………!」 蒼月の顔が強い怒りに歪んだ。それは蒼月の美しさと相混じり、月の魔物のような威圧感を生み出す。 「乱暴だな」 だが平然とした言葉を、水の球を砕いた男は蒼月に返した。 がっしりとした体躯の、六尺はある長身の男だ。四方髪に髪を束ね、柿渋の単衣を着流している。腰には徳利が一つ。 「何者…」 「さて」 からかうような笑みを口元に、男は蒼月を見ている。 声の感じからして、年は四十前後か。 「ふざけた…ことを」 「かもな。真面目にやるなら、わざわざ姿は見せん」 その言葉に、蒼月は男の正体を察する。 「忍…ですか」 「まあな。といち、とでもおぼえておけ」 笑みを崩さず、『といち』は答えた。 武器の一つも持った様子もなく、無防備にだらんと両の腕を下げたまま。 いや、無防備だが、無防備ではない。 いまにも崩れそうな将棋の駒の山が、絶妙に釣合を取り合い、決して崩れないような、そんな隙のなさがある。 男は攻めるでもなく、誘うでもなく、ただ笑んで、蒼月を見ている。 ――何故… 読めない相手に、蒼月は己でも気づかず、微かに苛立っていた。 『といち』は動かない。 故に蒼月も動かない。動けない。 吹き抜ける風が二人の髪を揺らす以外、動くものはない。 「そろそろ、だな」 つと呟いて、『といち』が天を仰いだのは、どれぐらい経った頃だったろうか。 天頂に在った月は、いくらか西に傾いていた。 その瞬間、蒼月は全てを悟った。 「時間稼ぎ…か!」 叫ぶと同時に、水を放つ。 「あたり!」 答えながら、意外なほど軽やかに、『といち』は水から逃れた。 「また逢うさ」 「逃がしません!」 追おうとしたその時、土砂が蒼月の目の前に吹き上がる。 「くっ」 土砂が消えたときには、『といち』の姿はなかった。 「……おのれ……」 残された蒼月は、一人、月を睨むように見上げた。 青く光る月はだが、蒼月など気にかけた風もない。 遥か天空にあるものが、地上に生きるもののことなど、気にかけるだろうか。 ――……………… 不意に蒼月の視線が天から地に下りる。 「………」 伏せた顔に、どんな表情が浮かんでいるのか、月さえもそれを見ていない。 と。 蒼月を閉じ込めるようにその足元から、水柱が噴き上がった。 月光にきらめくしぶきを上げながら、その月をも砕かんとするほど、高く。だが、月までは届くはずもなく、力尽きたように崩れ、砕ける。 まるで真珠のような水の粒が、きらきらときらめきながら、宙を舞い、落ちる。 全ての水が地に落ちたとき、蒼月の姿はどこにも、なかった。 |