弐 傾月


 火月は河原にごろん、と寝転がった。
 ごつごつとした石が背中に痛いが、こうして横になっているということは、心地よい。
 全力で走り詰めだったせいで、荒い呼吸に大きく胸が上下し、心臓は割れそうなほど早鐘を打ち、汗が滝のように体を流れ落ちていく。
 月は、天頂から西へ大きく傾いていた。
 顔を動かさなくては、火月にはもうその月は見えない。視界にあるのは、月光の中、おずおずと輝く星々だけだ。
 月は、見えない。
――兄貴……
 無事だろうか……
 水が舞う、そう感じた瞬間、災炎を解き放っていた。
 焔は火月を守るために、蒼月に襲いかかった。…いくらあの兄でもすべて躱わし切るのは難しい、はずだ。
 だからこそ、自分はこうして無事にここにいる。
 だが、蒼月は……
 口数の少ない、表情も滅多に表さない男だった。
 だがそれでも弟妹への想いは深かった。一言だってそんなことを口にはしなかったが、火月にはちゃんとわかっていた。
 わかっていたはずだった。そのつもりだった。
 だが、それは火月の一人よがりだったのか。
 月は、見えない。
 顔をほんの僅かに西に向ければ見えるのだろうが、見えない。
 見えていたはずなのに、さっきまで、確かにいま見ている方にあったはずなのに。いつの間にか、違う場所に移ってしまった。
 夜空が歪んで見えた。青白い光の中の星の光がにじんで見える。
「ちくしょお……」
 ぐい、と火月は目をこすった。
 がば、と起き上がる。
 呼吸も心臓も、すっかり落ち着いている。汗も引き、忍び寄る夜気に火月は身を震わせた。
――水……
 喉がからからに乾いているのに、今更の様に気づく。
 さらさらと流れる水の方へ、ふらふらと歩み寄る。
 体のあちこちが痛みを上げる。河原で寝ころんでいたせいだけではない。蒼月の攻撃を受けたところが、鈍く、痛い。
 流れの側に膝をつき、片手をすくい入れる。ひやりとした水が、気持ちいい。優しい、川の流れ…心地よい、水の感触……水………
「飲まんほうがいい、と思うがな」
 静かな声に、火月の動きが止まった。背後に、気配が一つ。
「なっ!?」
 刀に手をかけ、振り返る。
「敵ではない」
 そこには柿渋の単衣を着流した、背の高いの男が懐手で立っていた。
「味方かどうかも定かではないがな」
 距離はたったの二間ほど。そこまで近づかれていながら、まるで火月は気づいていなかった。
 追手ではないようだが…油断は出来ない。
 すっと、男が無造作に袖に手を通した。
 思わず火月は一歩引く。引いた足が、川に、つかる。
 水が、冷たい。
「いま飲めば、身を冷やして却って毒だ」
 火月の警戒に気づいているのかいないのか、男は腰に下げた小袋からなにやら取り出し、火月に向かって投げた。
 反射的に受け止める。
「しゃぶれば喉の渇きは治まるだろう」
 受け止めたそれは、何かの丸薬のようだ。
 掌の上のそれと、男の顔とを交互に見比べる。
 男は腰に下げていたもう一つ、徳利を取ると、ごくりとあおった。
「何者だ、あんた」
 目の前にいるのに、その気配が妙に希薄にしか感じられないのが気にくわない。
「敵ではない、だけでは不満か」
「不満だ」
「忍さ、ただのな」
 ニヤリと笑う。
「どこのだよ」
 問いながら、火月は手の中の丸薬をちらと見る。
「毒と思うか?」
 揶揄するような声と、目。恐いのか、と言っているようだ。
 それに反発するように火月は丸薬を口に放り込んだ。
「……酸っぺぇ」
 口内に唾液が溢れて来る。だが、おかげで喉の渇きは治まった。
「よし、行くか」
 くるりと忍の男は火月に背を向ける。
「どこへ?」
 やけに親しげな口調に、それでつい、火月は問うていた。
「原城跡さ」
「原城、跡?」
 あんな、廃虚しか残っていない場所に、いったい何の用があるのというのだろうか。
 しかし言いながらも、火月は何か引っかかるものを感じた。
「野暮用があってな。面倒なことだ」
「へぇ……」
「………………」
 ちら、と男は肩ごしに振り返った。思案するような色がその目に浮かんでいたが、やがて口を開くと、
「ある、娘…に関わりがあってな」
「何?」
 面白いように火月の顔色が変わった。
「三日ほど前に突然原城跡に現れた、と、聞いている」
 言葉を選びながら言うが、火月はそれに気づいた様子もなく、
「三日前だと、本当か、いや、てめえ、何でそんなこと知ってる!」
男の襟首を掴むと、荒々しく揺さぶりながら問うた。
「噂、で、聞いた、だけだ」
 言葉を切れ切れにしながら、少々驚いた様子で男は答える。
 だがその目はどこか冷ややかに火月を視ていた。
「そう…か」
 気抜けしたように、火月は手を離した。男は軽くむせかえる。
「原城…か」
「どうした?」
「……………」
 無言で火月は歩き出す。
「………………」
 その背を男はしばらく見つめていたが、音なく、小さく、にやりと笑むと、後を追った。
「お前、名は?」
「……火月」
「かづき?」
 また口元に徳利を運びかけた手を止め、男は繰り返す。
「なんだよ」
「いや」
 酒がごくりと男の喉を流れ落ちる音が聞こえ、その後小さく、「年だな」と呟くのが、聞こえた。
「あんたは?」
「儂か? といちだ」
「といちぃ?」
「漢字なら十に一だな」
「まんまじゃねぇか」
「まんまさ」
 にやり、と『といち』は笑んで頷いた。

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