火月は河原にごろん、と寝転がった。 ごつごつとした石が背中に痛いが、こうして横になっているということは、心地よい。 全力で走り詰めだったせいで、荒い呼吸に大きく胸が上下し、心臓は割れそうなほど早鐘を打ち、汗が滝のように体を流れ落ちていく。 月は、天頂から西へ大きく傾いていた。 顔を動かさなくては、火月にはもうその月は見えない。視界にあるのは、月光の中、おずおずと輝く星々だけだ。 月は、見えない。 ――兄貴…… 無事だろうか…… 水が舞う、そう感じた瞬間、災炎を解き放っていた。 焔は火月を守るために、蒼月に襲いかかった。…いくらあの兄でもすべて躱わし切るのは難しい、はずだ。 だからこそ、自分はこうして無事にここにいる。 だが、蒼月は…… 口数の少ない、表情も滅多に表さない男だった。 だがそれでも弟妹への想いは深かった。一言だってそんなことを口にはしなかったが、火月にはちゃんとわかっていた。 わかっていたはずだった。そのつもりだった。 だが、それは火月の一人よがりだったのか。 月は、見えない。 顔をほんの僅かに西に向ければ見えるのだろうが、見えない。 見えていたはずなのに、さっきまで、確かにいま見ている方にあったはずなのに。いつの間にか、違う場所に移ってしまった。 夜空が歪んで見えた。青白い光の中の星の光がにじんで見える。 「ちくしょお……」 ぐい、と火月は目をこすった。 がば、と起き上がる。 呼吸も心臓も、すっかり落ち着いている。汗も引き、忍び寄る夜気に火月は身を震わせた。 ――水…… 喉がからからに乾いているのに、今更の様に気づく。 さらさらと流れる水の方へ、ふらふらと歩み寄る。 体のあちこちが痛みを上げる。河原で寝ころんでいたせいだけではない。蒼月の攻撃を受けたところが、鈍く、痛い。 流れの側に膝をつき、片手をすくい入れる。ひやりとした水が、気持ちいい。優しい、川の流れ…心地よい、水の感触……水……… 「飲まんほうがいい、と思うがな」 静かな声に、火月の動きが止まった。背後に、気配が一つ。 「なっ!?」 刀に手をかけ、振り返る。 「敵ではない」 そこには柿渋の単衣を着流した、背の高いの男が懐手で立っていた。 「味方かどうかも定かではないがな」 距離はたったの二間ほど。そこまで近づかれていながら、まるで火月は気づいていなかった。 追手ではないようだが…油断は出来ない。 すっと、男が無造作に袖に手を通した。 思わず火月は一歩引く。引いた足が、川に、つかる。 水が、冷たい。 「いま飲めば、身を冷やして却って毒だ」 火月の警戒に気づいているのかいないのか、男は腰に下げた小袋からなにやら取り出し、火月に向かって投げた。 反射的に受け止める。 「しゃぶれば喉の渇きは治まるだろう」 受け止めたそれは、何かの丸薬のようだ。 掌の上のそれと、男の顔とを交互に見比べる。 男は腰に下げていたもう一つ、徳利を取ると、ごくりとあおった。 「何者だ、あんた」 目の前にいるのに、その気配が妙に希薄にしか感じられないのが気にくわない。 「敵ではない、だけでは不満か」 「不満だ」 「忍さ、ただのな」 ニヤリと笑う。 「どこのだよ」 問いながら、火月は手の中の丸薬をちらと見る。 「毒と思うか?」 揶揄するような声と、目。恐いのか、と言っているようだ。 それに反発するように火月は丸薬を口に放り込んだ。 「……酸っぺぇ」 口内に唾液が溢れて来る。だが、おかげで喉の渇きは治まった。 「よし、行くか」 くるりと忍の男は火月に背を向ける。 「どこへ?」 やけに親しげな口調に、それでつい、火月は問うていた。 「原城跡さ」 「原城、跡?」 あんな、廃虚しか残っていない場所に、いったい何の用があるのというのだろうか。 しかし言いながらも、火月は何か引っかかるものを感じた。 「野暮用があってな。面倒なことだ」 「へぇ……」 「………………」 ちら、と男は肩ごしに振り返った。思案するような色がその目に浮かんでいたが、やがて口を開くと、 「ある、娘…に関わりがあってな」 「何?」 面白いように火月の顔色が変わった。 「三日ほど前に突然原城跡に現れた、と、聞いている」 言葉を選びながら言うが、火月はそれに気づいた様子もなく、 「三日前だと、本当か、いや、てめえ、何でそんなこと知ってる!」 男の襟首を掴むと、荒々しく揺さぶりながら問うた。 「噂、で、聞いた、だけだ」 言葉を切れ切れにしながら、少々驚いた様子で男は答える。 だがその目はどこか冷ややかに火月を視ていた。 「そう…か」 気抜けしたように、火月は手を離した。男は軽くむせかえる。 「原城…か」 「どうした?」 「……………」 無言で火月は歩き出す。 「………………」 その背を男はしばらく見つめていたが、音なく、小さく、にやりと笑むと、後を追った。 「お前、名は?」 「……火月」 「かづき?」 また口元に徳利を運びかけた手を止め、男は繰り返す。 「なんだよ」 「いや」 酒がごくりと男の喉を流れ落ちる音が聞こえ、その後小さく、「年だな」と呟くのが、聞こえた。 「あんたは?」 「儂か? といちだ」 「といちぃ?」 「漢字なら十に一だな」 「まんまじゃねぇか」 「まんまさ」 にやり、と『といち』は笑んで頷いた。 |