参 隠月


 いったいいつ打ち捨てられたのだろう。
 廃屋ばかりが立ち並ぶその村は、朝の澄んだ光が差し込んでいるというのに、どこか寒々として、陰気な気配が漂っていた。
 その村の一軒の廃屋に、しばしの休息の時を火月と『といち』は求めることにした。
 火月は先を急ぎたがったのだが、『といち』に今日は休んだ方がいいと言われ、しばらく考えた後、受け入れたのだった。
 追手は気にかかるが、少し、休みたい。里を出てから、ろくに休息を取っていないのだ。疲れた今の状態で、また、蒼月と戦って…戦って、どうにかできる自信はない。
「さきに休め。儂はもう少し、こいつを楽しむ」
 火月が顔を向けるより早く、しかし自然に、『といち』は言った。右手で徳利をふって見せながら。
「わりぃ……じゃ、甘えさせてもらう」
 少しすまなそうな視線を向けると、火月は囲炉裏の側に横になり、たちまち寝息を上げ始める。
――随分とあっさり、こちらを信用したな。
 五年前を『といち』は思い出し、一人笑んだ。
「……ん?」
――一人…二人……六人、いや、七人。水使いも、いるな……
 破れた障子戸に向けた『といち』の顔に、剣呑な表情が刹那、走った。


 陰に潜み、蒼月は一つの廃屋の様子を窺っていた。
 配下の者から、火月がこの村で休んでいるとの知らせを受け、駆けつけたのはつい先ほど。
 ある程度は抑えているようだが、火月の気配はしっかりと感じ取れる。
 ……どうやら、眠っているらしい。
――何を…考えているのやら……
 追われている身でありながら、やけに落ち着いている。大物なのか、ただの馬鹿なのか…それとも、あの『といち』が側にいるせいか。
 確かに、人を引き付けるものがあの男にはあったように思う。どちらかと言えば、火月が好みそうな種類の男だろう。
 だが『といち』の正体は甲賀忍だろうと、蒼月は推測を立てている。
 普段は決して関わらぬ風間と甲賀だが、この一件だけは別だ。一五○年前からの深い因縁が、両者の間には横たわっている。
――甲賀者と一緒にいるとは…全く……
 ふと、五年前のことを思い出す。
 あの時火月は、甲賀忍の里に迷い込んだ。そして確か…異人の少年―忍になるなどという酔狂な望みを持っていたとか―と親しくしていた。初めて会った、心の底も知れぬ異人の、異相の少年と。
 火月にそういう純粋な、悪く言えば単純な部分があるのはわかっていた。人としてはともかく、忍としては全く不用な部分である。
 しかしだからこそ、そんな部分を持ち続けていたからこそ、火月は里を抜けた。
 神隠しに…あった、葉月を救い出すために。
「……どう…動きますか」
 低く、低く呟くと、蒼月は後ろ腰の刀に手をかけた。
 この廃村のあちこちに隠れている配下は、蒼月の合図一つで一斉に襲いかかることになっている。
 合図を送ろうと左手を天に伸ばす。
 がらっ
 それが合図だったわけでもないだろうが、それと同時に、火月がいる廃屋の戸が開いた。
――………
 戸から姿を見せたのは、柿渋の着物を着流した男、『といち』。
 火月は……まだ、眠っている。
 『といち』は大きく生欠伸を一つ、洩らす。
「火月は寝ている。儂も眠りたいがなぁ、こう囲まれていては」
 『といち』は大きく周囲に視線を動かした。その視線は的確に、風間の忍達が潜んでいる場所を捉えている。
「なぜ……」
 火月は、目を覚まさない?
 この男が自分達に気づいたからといって、火月が気づくというわけではないのはわかっているが、この男が動いたのなら目を覚ますはず…。
 火月とて忍なのだから。
 蒼月の呟きが聞こえたのか、『といち』は一つ肩をすくめた。
「出て来い。隠れていても無駄だ」
 『といち』の目が蒼月の目を捉え、離さない。
 見ている。
「………………」
 ゆっくりと蒼月は陰から、姿を現した。
 ざわり、と動揺の気配が忍達か感じられるが、蒼月は小さく合図して、出て来るなと伝えた。
 蒼月自体はもう戦闘体勢に入っている。風間の二振りの宝刀の一つ、青竜は青白い気を立ち登らせ、冷たい雫を滴らせている。
 がらっ
 『といち』は蒼月の目の前で、大きく戸を開いた。
――火月……!
 ちろちろと燃える囲炉裏の火の前で、ごろん、と横になって眠る火月の姿がそこにあった。気持ち良さそうにいびきをかいている。
「はい、ここまで」
 蒼月が思わず一歩踏み出しかけたとき、ぴしゃん、と戸が閉まった。
 くん、と蒼月は刀を僅かに抜いた。
「やめとけ」
 『といち』の声が些か剣呑なものになった。
 風。
 髪の一筋も揺れなかったが、確かに風を蒼月は感じた。この『といち』から叩きつけられた殺気を、風と感じていた。
 微かに息を飲む音がいくつか、聞こえた。身を潜めていた配下の忍達、だろう。あの者達も、感じたのだ。このすさまじい殺気を。
 ひょっとしたら自分のものも、あったかもしれない。
「やると言うのなら、遠慮はせんが」
 その口調から、剣呑なものは消えていた。
 逆に殺気は、あの風、一瞬だけだ。
 それ故になお一層、あの殺気のすさまじさが心に刻まれる。
「どうするよ? 風間蒼月」
「!?」
 滅多に表れない動揺が、蒼月の顔を走った。
「風間の水使い、しかも二振りの宝刀の一刀、『青竜』を持つ者の名ぐらいは知っている。それに、火月の兄だしなぁ」
 『といち』は懐手のまま、蒼月を見ていた。蒼月から動揺が引いていくのが見て取れる。睨むでもなく、ただじっと、『といち』の全てを見きわめんとするかのように、蒼月は『といち』を凝視していた。
 五年前と、同じ目だ。
「あなたは…甲賀の者ですね」
「まあな」
 いともあっさり『といち』は頷いた。
「火月に近づいて、何を…企んでいるのですか」
「甲賀の目的はただ一つだ」
「……火月を利用する…気ですか」
「利用する価値があるならな」
「……!」
 ぴっ
 何かが『といち』の頬をかすめた。
 赤い血が一筋、流れ落ちる。
「儂は忍だからな。だが、守るべき一線は知っている」
 頬の血を拭うと、手にしていた徳利から一口、酒を飲む。
「…………………」
 蒼月は言葉を見失い、無意識に『といち』から視線を逸した。
 『といち』はそんな蒼月にくるりと背を向けると、もう一度戸を開く。
 まだ眠っている火月の姿が、見える。
「くっ」
「今度は本気でいこうか」
 蒼月が一歩踏み出したと同時に、声。
 はったりでは、ない。負ける気はしないが、勝てる気も、しない。その確信に、風間蒼月ともあろう者が動けなかった。重大な役目を命じられている以上、軽はずみに動くことは、許されない。
「それだけか?」
 見透かされたような言葉に、蒼月の目がすうっと細くなった。
 ふん、と『といち』は一つ鼻を鳴らすと、家に入り、ぴしゃりと戸を閉めた。
 …かちん。
 一寸ほど抜いていた刀を、収める。
「……退きます」
「蒼月さ……」
「退きます!」
 ためらいがちにかけられた声を打ち消すように、蒼月は叫んだ。
 普通の感情でさえ滅多に表さない蒼月の激昴に、風間の忍達は口をつぐんだ。
 蒼月はくるりと廃屋に背を向けると、早足でその場を立ち去る。
 だんだんとその足は速くなり、いつしか駆け出していた。
――ここであの男と戦うのは、得策ではない…
 心の中で呟くその言葉が言い訳であることを、蒼月は痛いほど感じていた。


 忍達の存在が消えると、『といち』は小さく息を吐いた。
 ふと気づいて、自分の掌を見やる。
 息、もう一つ。
 しっとりと、その手は汗に濡れていた。
 囲炉裏の前に、腰を下ろす。
 火を挟んだ向こうでは、火月が心地よさそうに眠っている。何か楽しい夢を見ているのかもしれない。
――儂の術も、捨てたものではないな。
 しばらく…少なくとも日が沈むまでは追手は来るまい。しばしの休息が取れるというものだ。
 火月もその頃には目を覚ますだろう。
「お屋形様」
 陰の中から、声がした。
「豊壬か」
「は」
「風間の動きは」
「その者を追うのは数人のようです。五人、多くても十はいないでしょう。率いるのは水を使う者。
 その存在を秘したい風間ですから、この辺りが精一杯と思われます。彼の里の規模からしても、この人数が妥当かと。
 水使いが相当な腕ですから、十分とは思いますが」
「花は?」
「夜明けには」
「他は」
「城の周りで風間がなにやら動いております」
「ふむ」
「今はまだ、様子を窺っているに過ぎないようですが、そろそろなにやら始めそうです」
「満月は、明日だな」
「はい」
「原城の周りの風間は適当に遊んでやれ。
 ただし、水使い、風間蒼月が現れたら、手を出してはならん。お前ならともかく、他の者には荷が重い」
「は」
「ゆけ」
 存在が一つ、この場から去る。
「葉月…兄貴………」
 幸せそうに、火月が呟く。
 『雛』であるが故に贄にされる娘。その娘がこの若い忍の妹であり、この若い忍が里を抜けた理由。そして、兄が弟を追うことになった、理由。
 だが何も火月は知らない。ただまっすぐに大切な妹を救い出そうとしている。
 では、蒼月は?
「どちらでも、いいがな」
 あの時見せた、蒼月の動揺を思い出しながら、『といち』は呟いた。
 どこか意味ありげに、冷たく。

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