九 蒼月


「やるもんだな」
 呟き、『といち』がまた酒をあおったその時、ぱしゃん、と水が音を立てた。
――ふん…
 視界の隅に水柱が砕けるのが見え、跳ねた水が『といち』の顔に飛んだ。
「ふん」
 顔を拭い、『といち』はもう一口、酒をあおると立ち上がった。


 差し伸ばした火月の両の手が、大切な妹を抱きしめようとした、その時。
 冷たい水が跳ねる音が、静寂を破った。
「葉月から…離れなさい、火月」
 冷たい声が、火月の動きを封じる。
 空を漂う、白い霧。
「火月」
「何故だ、兄貴!」
 無理矢理に振り返り、火月は叫んだ。
 霧の中に、すでに青竜を抜きはなった蒼月の姿があった。
「終わったじゃねぇか、俺はあいつを倒した。もういいだろう、葉月は自由だ、そうだろ兄貴!」
 火月の叫びは、まるで、自分に言い聞かせているかのようだった。
 構わず蒼月は青竜を手にしたまま、一歩、一歩、火月の、葉月の元に歩み寄る。
「兄貴…」
 一歩後退り、絶望的な表情を浮かべ、火月は、朱雀を抜いた。
 弟達からたった二間ほどの距離をおき、蒼月は足を止める。
「離れなさい…まだ、終わっていない。終わらせなければ…いけない」
 蒼月の言葉が終わると同時に、空が『それ』に怯えるように震えた。

 怨。

 おん。
 オン。

「よくも…」

 怨。
 オん。

 オぉン。

「ヨクモ…」

 ぉ怨ンん。

 おオン。

 おんんんんっ。

「よクモぉッ!!!」

 地に押し付けられるような圧迫感に、火月は膝をついた。
 空を引き裂き、それが現れる。
 もはや形すら定かでない、ドス黒い『何か』の塊。 圧倒的な憎悪と憤怒だけが、そこに在る。
「来ましたね」
 圧迫感をまるで感じていないかのように、静かに立ったまま、蒼月は空を見上げた。ただ立っているだけなのに、舞っているかのような優雅さ、しかし氷のような冷たさを宿した優雅さを漂わせながら。
「なんだよ…これ……」
「お前が倒したのは…怨霊道真の一部。これこそが本来の姿です。
 もっとも…これとて、完全ではないのですがね」
 水平に、自分の前に、蒼月は青竜をかざし、柄から剣先まで、左手を刃の上に滑らせた。
 透き通った冷たい雫に、ほんの少し、赤いものが混じる。
「そこをどきなさい。あれを封じます」
「どう、やって」
 片膝をついた姿勢で、火月は朱雀を構える。
 問いながらも火月が、『方法』に気づいていることが、蒼月には感じられる。
「お前が知る必要は…ありません」
 その口から流れ出るのはしかし、冷やかな言葉だけ。
「させねぇ…絶対に、させねぇ………」
 ズンッ
「……くっ」
 圧迫感が増し、火月の構える朱雀の切っ先が下がりそうになる。
「滅ぼシテクレる、全てを滅シてくレるワ!」
 全てを拒絶する叫びと共に、黒い塊が下りてくる。ゆっくりと、じわじわと、こちらの恐怖をあおるように。
「どきなさい」
「嫌だ!」
「やむを…えませんね」
 微かな溜息は、火月には聞こえなかった。
 ぱちんっ
「円月」
「!?」
 蒼月が指を鳴らすと、火月は大きな水の球体の中に閉じ込められた。水の球は宙に浮き上がり、火月を葉月から引き離す。
『兄貴ぃぃっ!』
「今のお前では…そこから出ることは、叶いません」
 垂直に、青竜を構える。
 ズズズッ
 また、圧迫感が増す。
 黒い塊は、もう、手を伸ばせば届くかと錯覚するほど、近くまで下りてきている。
「私は火月のように…手ぬるくは、ありません」
 青竜の向こうに、娘の姿がある。桜色の長襦袢を纏い、ほんの少し腕を広げ、眠っているように目を閉じた、娘の姿がある。
 蒼月の妹、葉月の姿がある。
「時間は…かけませんよ」
「サせるかァっ!」
 黒の塊から、錐のような鋭いものが、蒼月を襲う。
『兄貴ぃっ!』
「無駄な…ことを」
 視線すら、蒼月は動かさなかった。
 斬っ
 霧が凝縮して水の鎌となり、黒い錐を切り払う。
「手ぬるくはないと…言ったはずです」
 兄の口の端が、ふうっ、とつり上がるのを、火月は見た。
『やめろ…』
 察したように黒の塊が震える。
「やメロ……」
「これで終わり…です」
『やめろぉぉぉぉぉぉっ!!!』
「消月波」
 冷たさを宿した囁きが空を微かに震わせ、地に青竜が突き立てられる。水晶のような刃が突き立ったそこから澄んだ水があふれ出し、見る間に巨大な波へと変わる。それがもたげる鎌首は無防備な葉月に向けられ……

 微かに、品のよい香気がしたように、蒼月は思った。

『葉月ぃぃぃっ!!!!』
 水は娘を飲み込み、ごうごうと音を立て、渦を巻く。
「……これ…は……ョ」
 揺れる声が、蒼月の口から洩れた。
 水が「渦の中心に向かって」引いていく。
 引いていく水の中から姿を現したのは、大きな、大きな梅の木。
 雪のような、しかしどこかあたたかみを宿した白い花をいっぱいにつけた梅の木が、そこにあった。
 品のよい香気を、月明りの照らす闇の中へ、白い花が投げかけ、広げ、空を満たしていく。
「葉月…」
 その姿はどこにもない。
『葉月、葉月、葉月よぉっ!』
 水球の中の火月の声が、虚しくこだまする。
「オお、おオォ、オう、オぅ、オオウ、オおぉぉぉォ……」
 歓喜とも慟哭ともつかぬ声が、火月の怒りと悲しみを打ち消すかのように、闇に響きわたった。
 そして。

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