拾 葉月


 娘は姿を現した。
 白い花をいっぱいにつけ、えも言えぬ香気を放つ梅の木の下に。
 天女の羽衣のような着物を纏い、太陽のように暖かな笑みを浮かべて。
『葉月……?』
「葉月」
 兄二人は全く同時に、困惑の声を上げた。
「蒼月兄さん」
 一つ。
「火月兄さん」
 もう一つ。
 大切な、大好きな兄二人に笑みを向けて、葉月はその小さな両手を天に向かって、なおも歓喜とも慟哭ともつかぬものに震える、黒の塊に向かって、差し伸ばした。
「忘れてません。私は、約束を守ってます。
 あなたの歌を思い、忘れない。
 ずっと、待っています」
 天に向けた、黒の塊に向けた笑みは、蒼月も火月も知らない、だがとても優しく慈愛に満ちたものだった。
「おおぉぉぉぉぅぅぅぅ………」
 黒の塊が、すうと地に舞い降り、形を取る。
 束帯を纏い、笏を手にした、公家の姿をした男。その両の頬には涙が一筋、伝い落ちている。
「待っていて、くれたのか…ずっと、ずっと……」
「今でも、待っております」
 もう一つ、葉月の笑みの違いに、火月は気づいた。年の割に幼い顔立ちだったはずのその顔に、何とも言えない艶がある。
 それが何か淋しく、不安を火月の胸に起こす。
「……東風…吹かば、匂いおこせよ…梅の、花…主なしとて、春を忘れそ……」
 掠れた声で、蒼月は呟く。
 『といち』が携えていた、白梅の枝。
 道真を慕いから太宰府まで飛んだ梅の伝説を、蒼月は思い出していた。
――これが、甲賀のやり方……
 あの男は邪気の塊。それは変わっていない。だが、強烈に放っていた憎悪が、憤怒が、そして…悲しみが薄れつつある……
「おおぉぅぅ…おおぅ……」
 とめどなく涙を流しながら、一歩、一歩、男は葉月に近づいていく。
 求めるように、手を差し伸ばし……
『葉月!』
 思わず火月が叫んだその瞬間、男の伸ばした手は葉月の身をすり抜けた。
「大丈夫よ、兄さん」
 火月を見上げて笑みに言葉を添えると、葉月は木の下の男の方に振り返った。
「ああ……待っていて、くれたのだな……」
 愛おしそうに、梅の木を撫でる。その身が徐々に薄れていく。
「これは……」
「忘れられること、それが何よりも悲しいの。親しい人たちから、故郷から遠く離れたこの地で儚くなって忘れられることが、何よりも、悲しかったの……」
「葉月」
「私は雛。穢れ、邪気、人の辛い心を受け止める者……道真さんの心も、わかるの……」
 葉月がそう語る内にも、道真の姿は薄れ、消えてゆく。
 そして……
「ああ、待っていたのだなぁ……」
 満足そうに呟いて、道真は、消えた。
 邪気もすべて、消えた。
「いっちゃった……」
 囁くよう言って、ふうわりと、地の束縛など知らぬかのように軽やかに、葉月は梅の木の一番大きな枝まで舞い上がった。纏う羽衣にふさわしく、天女の如く。
『葉月』
「火月兄さん」
「葉月…」
「蒼月兄さん」
 最高の笑顔。
 おてんとうさまのように輝く笑顔。
「だーいすき」
 風。
 香が流れ、白い花びらが吹雪と化す。
「ずっとずっと、一緒だよ」
『葉月!』
「葉月!」
 寸分狂いなく、全く同時に、蒼月と火月は叫んでいた。
 前触れなく、風が止まる。
 花吹雪が途切れたそこには、葉月の姿はなく。
『葉月…?』
 思い出したように吹き始める風が、また、白い花を散らせる。
「…………………」
 僅かに蒼月は顔を伏せた。その唇が、一言、二言、呟くように動く。
 さやかな風は、火月を閉じ込めた水の球も、そっと揺らす。
 火月は両の拳を強く握りしめた。
 後ろ腰の朱雀が、炎に包まれる。
『葉月ぃぃぃぃぃぃぃっ!』
 叫ぶ火月を封じ込めていた水の球はゆっくりと地に下り、弾けた。
 解き放たれた火月は、弾けた水の勢いのままに蒼月に襲いかかる。
 ぎぃんっ!
 業炎に包まれた朱雀を、雫を滴らせる青竜が受け止める。
「蒼月、これが、これでいいのかよぉっ!」
 すうっと、蒼月の目が細くなる。
「!」
 思わず火月は、飛び離れた。
「葉月のことよりも…まず、自分の心配を…しなさい」
 青白い気を身より立ち昇らせ、蒼月は刃を構える。
「抜け忍を…見逃すわけにはいきません」
「それが兄貴の言うことかよっ!」
「掟は…掟です」
 言った兄の殺気は、鋭すぎるまでに強く、本気だと、火月は悟った。
「…そっか」
 ぽん、と火月は朱雀を投げ捨てた。
「いいよ。兄貴の好きにしろ。…葉月を俺は、救ってやれなかった。もう、いいよ」
「愚かな…」
 蒼月の声に、微かに怒りが混じった。
「え?」
「頭を…冷やしなさい」
「あに、き?」
 疾っ!
 一気に間合いをつめる。
「…………………」
「!」
 驚きに、火月の目が揺れる。
 ひょうっ
 一閃。
 赤い血潮が、白い花の散る中、舞った。
 何かを叫ばんとするかのように火月の口が動いたが、それだけで。
 どおっ、と音を立て、倒れる。
 蒼月は青竜を一振りして血を払い、鞘に収めた。
「御見分…を」
 言うと同時に、三人の忍が現れる。
 忍達は火月の脈を取り、呼吸と鼓動を確認する。
「確かに」
 頷いた後、一人が梅の木を見上げる。
「蒼月殿、しかしこれは? 雛の封じにしては奇妙な」
「甲賀が…何かしたのでしょう。邪気は封じたのではなく…浄化されたようです」
「なんと…」
「ことの次第を長にご報告…ください」
「心得ました。蒼月殿は?
「弟を…葬ってやるぐらいは…許されるでしょうか」
 三人は僅かに顔を見合わせたが、すぐに蒼月に向き直ると、
「承知」
それだけ言って、姿を消した。

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