娘は姿を現した。 白い花をいっぱいにつけ、えも言えぬ香気を放つ梅の木の下に。 天女の羽衣のような着物を纏い、太陽のように暖かな笑みを浮かべて。 『葉月……?』 「葉月」 兄二人は全く同時に、困惑の声を上げた。 「蒼月兄さん」 一つ。 「火月兄さん」 もう一つ。 大切な、大好きな兄二人に笑みを向けて、葉月はその小さな両手を天に向かって、なおも歓喜とも慟哭ともつかぬものに震える、黒の塊に向かって、差し伸ばした。 「忘れてません。私は、約束を守ってます。 あなたの歌を思い、忘れない。 ずっと、待っています」 天に向けた、黒の塊に向けた笑みは、蒼月も火月も知らない、だがとても優しく慈愛に満ちたものだった。 「おおぉぉぉぉぅぅぅぅ………」 黒の塊が、すうと地に舞い降り、形を取る。 束帯を纏い、笏を手にした、公家の姿をした男。その両の頬には涙が一筋、伝い落ちている。 「待っていて、くれたのか…ずっと、ずっと……」 「今でも、待っております」 もう一つ、葉月の笑みの違いに、火月は気づいた。年の割に幼い顔立ちだったはずのその顔に、何とも言えない艶がある。 それが何か淋しく、不安を火月の胸に起こす。 「……東風…吹かば、匂いおこせよ…梅の、花…主なしとて、春を忘れそ……」 掠れた声で、蒼月は呟く。 『といち』が携えていた、白梅の枝。 道真を慕いから太宰府まで飛んだ梅の伝説を、蒼月は思い出していた。 ――これが、甲賀のやり方…… あの男は邪気の塊。それは変わっていない。だが、強烈に放っていた憎悪が、憤怒が、そして…悲しみが薄れつつある…… 「おおぉぅぅ…おおぅ……」 とめどなく涙を流しながら、一歩、一歩、男は葉月に近づいていく。 求めるように、手を差し伸ばし…… 『葉月!』 思わず火月が叫んだその瞬間、男の伸ばした手は葉月の身をすり抜けた。 「大丈夫よ、兄さん」 火月を見上げて笑みに言葉を添えると、葉月は木の下の男の方に振り返った。 「ああ……待っていて、くれたのだな……」 愛おしそうに、梅の木を撫でる。その身が徐々に薄れていく。 「これは……」 「忘れられること、それが何よりも悲しいの。親しい人たちから、故郷から遠く離れたこの地で儚くなって忘れられることが、何よりも、悲しかったの……」 「葉月」 「私は雛。穢れ、邪気、人の辛い心を受け止める者……道真さんの心も、わかるの……」 葉月がそう語る内にも、道真の姿は薄れ、消えてゆく。 そして…… 「ああ、待っていたのだなぁ……」 満足そうに呟いて、道真は、消えた。 邪気もすべて、消えた。 「いっちゃった……」 囁くよう言って、ふうわりと、地の束縛など知らぬかのように軽やかに、葉月は梅の木の一番大きな枝まで舞い上がった。纏う羽衣にふさわしく、天女の如く。 『葉月』 「火月兄さん」 「葉月…」 「蒼月兄さん」 最高の笑顔。 おてんとうさまのように輝く笑顔。 「だーいすき」 風。 香が流れ、白い花びらが吹雪と化す。 「ずっとずっと、一緒だよ」 『葉月!』 「葉月!」 寸分狂いなく、全く同時に、蒼月と火月は叫んでいた。 前触れなく、風が止まる。 花吹雪が途切れたそこには、葉月の姿はなく。 『葉月…?』 思い出したように吹き始める風が、また、白い花を散らせる。 「…………………」 僅かに蒼月は顔を伏せた。その唇が、一言、二言、呟くように動く。 さやかな風は、火月を閉じ込めた水の球も、そっと揺らす。 火月は両の拳を強く握りしめた。 後ろ腰の朱雀が、炎に包まれる。 『葉月ぃぃぃぃぃぃぃっ!』 叫ぶ火月を封じ込めていた水の球はゆっくりと地に下り、弾けた。 解き放たれた火月は、弾けた水の勢いのままに蒼月に襲いかかる。 ぎぃんっ! 業炎に包まれた朱雀を、雫を滴らせる青竜が受け止める。 「蒼月、これが、これでいいのかよぉっ!」 すうっと、蒼月の目が細くなる。 「!」 思わず火月は、飛び離れた。 「葉月のことよりも…まず、自分の心配を…しなさい」 青白い気を身より立ち昇らせ、蒼月は刃を構える。 「抜け忍を…見逃すわけにはいきません」 「それが兄貴の言うことかよっ!」 「掟は…掟です」 言った兄の殺気は、鋭すぎるまでに強く、本気だと、火月は悟った。 「…そっか」 ぽん、と火月は朱雀を投げ捨てた。 「いいよ。兄貴の好きにしろ。…葉月を俺は、救ってやれなかった。もう、いいよ」 「愚かな…」 蒼月の声に、微かに怒りが混じった。 「え?」 「頭を…冷やしなさい」 「あに、き?」 疾っ! 一気に間合いをつめる。 「…………………」 「!」 驚きに、火月の目が揺れる。 ひょうっ 一閃。 赤い血潮が、白い花の散る中、舞った。 何かを叫ばんとするかのように火月の口が動いたが、それだけで。 どおっ、と音を立て、倒れる。 蒼月は青竜を一振りして血を払い、鞘に収めた。 「御見分…を」 言うと同時に、三人の忍が現れる。 忍達は火月の脈を取り、呼吸と鼓動を確認する。 「確かに」 頷いた後、一人が梅の木を見上げる。 「蒼月殿、しかしこれは? 雛の封じにしては奇妙な」 「甲賀が…何かしたのでしょう。邪気は封じたのではなく…浄化されたようです」 「なんと…」 「ことの次第を長にご報告…ください」 「心得ました。蒼月殿は? 「弟を…葬ってやるぐらいは…許されるでしょうか」 三人は僅かに顔を見合わせたが、すぐに蒼月に向き直ると、 「承知」 それだけ言って、姿を消した。 |