ぷん、と鼻をついた味噌の匂いに火月は目を覚ました。 ――葉月……? 朝一番に起きるのは、修練や任に出かける蒼月でも自分でもなく、葉月だった。 どんなに朝早くてもきちんと起きて、いつも自分達を送り出してくれた。あるいは、出迎えてくれた。 普段は飯と味噌汁を、急ぎの時は湯付けを、それすら口にする時間のないときには一杯の白湯か水を、蒼月と火月に、笑顔と共に出してくれた。 あの日最後に見た葉月も、笑顔だった。その笑みが、どれだけ自分の、そして蒼月の支えとなったことか。 だが今は。 ――いないん…だよな……… やるせない気分で、火月は起き上がった。 囲炉裏の火の上に、鍋が一つ。味噌の匂いはそこから漂ってくる。 鍋をのぞけば、味噌汁のようなものが白い湯気を上げている。ふちにかけられていた木杓子で中をかき混ぜてみれば、青い菜がゆらりと見えた。 「あいつ…?」 自分は寝ていたのだから、作ったのは、あの『といち』のはずだ。 だが、部屋を見回してもその姿は、ない。 空の椀が一つ、昨夜火月が寝てしまうまで『といち』がいた場所に置いてあるだけ。食事をした形跡はある。汁の渇き具合いからして、それほどの時間は経っていまい。 火月は立ち上がると、外をのぞいた。 廃村に人の気配は感じない。 「いっち…まったのか…」 奇妙な寂しさが胸をよぎる。 ぐ〜〜〜〜 「…………………」 鍋を見、自分の腹を見る。 もう一度。 「ええいっ!」 空っぽになった鍋を残し、火月はその家を出た。 目指すは、原城。 ――葉月…… 感じる。まだ……無事だ。 「待ってろよ。必ず、助けだしてやるからな!」 走る。 時折魔物が襲いかかってくるが、火月の振るう炎は魔を焼き尽くす。 魔の数は、少しずつ多くなる。 ――じいさまどもの話、ほんとかもな…… 子供のころから、里の年寄り達に聞かされてきた話。 巨大な魔が封じられているが故に、島原の地は動乱を呼ぶ。 百と五十年前の乱も。 つい最近あったという亡霊の復活も。 すべてその魔の存在故のことだという。 その魔を封じ、守る役目が、風間の衆には、ある。 葉月が行方知れずになったのは大切な役目のためと最後に長は言った。だから、諦めよと。風間の衆として、諦めよと、言ったのだ! 気づくべきだった、思い出すべきだった。もっと早く思い出せていたら、すぐに原城に向かったものを! 「くそおおっ!」 茂みを突き破り、異形が飛び出す。 「焼滅!」 火月の手から放たれた炎が、瞬時に異形を包む込む。叫びと共に異形は倒れたが、火月はそれを確認することすらせず、走る。 葉月を救い出す。葉月の兄として、必ず。風間の掟も風間の役目も何も関係ない! 走る。ただひたすらに走る。 原城には今日中につかなければならない。 なぜだかはわからない。だが、今日中になんとかしなければもう、葉月と会えない。 何故だか、そんな気がする。 「ぎゃあっ」 頭上から奇声と共に、猿とも人ともつかない化物が降ってくる。 「愚連脚っ!」 一瞬身を低くして初手を躱わすと、だん、と左足のみで飛び、右足を化物の腹にたたき込む。 「おらおらおらおらおらっ!」 続けざまに五発の蹴りを叩き込みながら、火月は宙に舞った。 「俺の邪魔をするんじゃねぇっ!」 最後に一撃、鳩尾に蹴りを入れると着地し、後ろも見ずにまた、走る。 化物が地に叩きつけられたときには、火月の姿は小さくなっていた。 木々や草が焦げた跡がある。時折、焦げた化物や異形の屍体が転がっている。 「火月殿ですな」 跡を調べていた忍が、顔を上げた。 「そう…ですね」 頷いた蒼月は跡に近づきもしていない。近づかなくても、一目見ただけでわかる。 火月の技をもっとも近くで見てきたのだから。 「まっすぐに…原城跡に向かっているようですね……」 いったいどうして、行き先を知ったのか。 『といち』が教えたか、それとも… 「ならば、もはや袋の鼠も同然」 原城跡の周りには、風間の忍衆が多く待機しているはず。 「それは……どうでしょうか」 原城跡―ここからではその姿を見ることはできない―の方に目を向け、ぽつりと蒼月は呟いた。 それに怪訝な声を忍が上げるより早く、蒼月は手でその者を制した。 それと同時に、一人の忍が姿を現した。 「どう…しました」 「長からの命を、お伝え致します。 蒼月殿以外の者はこれより直ちに原城に向かい、陣を強化すること。 蒼月殿は一人で原城へ行き、時と共に贄を仕上げよ、とのことです」 声こそ上げなかったものの、ざわっ、と蒼月に従っていた忍達がざわめいた。 「どういう…ことですか」 対象的に、蒼月の表情は揺らがない。 しかしその右手は、後ろ腰の剣の柄にかけられている。 「甲賀衆の妨害により、陣が整え難くなっております。もはやここで火月殿に構っている余裕はないとのこと」 「そう、ですか。わかり…ました」 左手で、ゆけ、と蒼月は合図した。 一つ頭を下げ、忍は姿を消した。 「蒼月様」 そう言った忍の声の中には、困惑と蒼月を案じる色がある。 「行きなさい。私も…原城へ向かいます」 簡潔に、蒼月は言った。それ以上の言葉を拒絶する響きを僅かに乗せて。 忍達はそれでも、僅かに何か言いたげな風を見せていたが、結局何も言わず、姿を消した。 「時間が、ない……」 柄を握りしめたまま、低く蒼月は声を洩らした。 あるいはそれは、意識しないものだったのかもしれない。 ひょう。 駆け抜ける風がその身を捉える前に、蒼月の姿は、消えていた。 「さすがに速い。四神の刀を持つだけのことはある」 感心したように、呟いたのは、『といち』。 ――いよいよ、最後の仕上げか。 くい、と酒をあおる。 酒臭い息を一つ吐く。 ――あの二人には、役に立ってもらわんとな。 『といち』の着物の帯に、白い花をつけた木の枝が一つあった。その花は、ほのかに品のよい香気を漂わせていた。 |