六 迷月


 一年前、封印の地、島原である事件が起きた。
 一五○年前に死したはずの者が、邪気の力により目覚め、現世に滅びをもたらそうとしたのだ。
 その者はある者達によって、倒されたのだけれども。
 風間の衆が守らなければならない封印は、弱くなってしまった。
 そして蒼月はその時初めて、葉月の『力』と『役目』を知った。
「これはお前と、この里の頭衆しか知らぬことと思え」
 重々しい口調で言った長の言葉を、蒼月はいつものように無言で聞いていた。だが膝の上に置かれた両手は、強く握りしめられていた。

 葉月は、『雛』。
 穢れを一身に、己が身に引き受ける者。
 あたかも、穢れや恨み、負の感情を託され捨てられる、『流し雛』のように。
 だから葉月は『雛』と呼ばれる。
 守るべき封が破れるとき、甦えらんとする魔性の力を吸収し、命と引き換えに、再び封じる役を担いし者。

「……ならば…葉月は…あれは……死するために生まれたということ、ですか」
 ほんの僅かではあったが、蒼月の声が、掠れていた。
「死は人すべての運命だ」
「……………」
 蒼月は僅かに目を伏せ、そして、長の目を見た。
 ……ぞくり。
 その目に、長は恐怖に近いものを感じた。
 蒼月の目から、ほんの今まで見せていた心の揺れが消え、氷のような冷たいものだけが、そこにあった。


 月はするすると昇っていく。
――後、一刻。
 辺りは不気味なほどに静かだった。
 空が流れる音さえ、ない。
 このまま何もなく、「その時」が来ればいい…
――だが。
 甲賀衆が必ずや妨害しに来る。彼らは、風間のやり方を認めない。
 そして。
 火月も来るだろう。必ず。
 火月が来れば。
 天から地に、蒼月は視線を動かした。
 廃虚となった城。その中庭だったところに、巨大な岩が一つ。
 その前に、宙づりにされたように浮かんでいる、一人の娘が在った。桜色の長襦袢だけを纏った、まだどこかあどけない顔立ちをした娘。
 少女は異様な気に包まれていた。いやその気を、自分の内に吸収していた。己が身に邪気を集め、宿し、己が命、魂の内に取り込んでゆく。
 言うなれば今の娘―葉月は純粋な邪気の結晶だ。
 封じるには最適のかたち。しかし、魔の者の糧となるにも、最適の形だ。
 見極めなければならない。
 『雛』を封じるのと同時に、その余波にこの辺り一帯の『魔』を取り込み、共に封じる時、その時を、ぎりぎりまで、見極めなければならない。


 火月は何も知らない。
 長は言うなと言った。
 蒼月はそれを理解した。
 火月は事実には耐えられまい。知れば必ず怒るだろう。何等かの暴挙にでるかもしれない。
 わかっていたから、長は言うなと言った。
 わかっていたから、蒼月は言わなかった。
 だが、と蒼月は思う。
 それでよかったのだろうか。
 言わずに、よかったのだろうか。
 結局、火月は暴挙にでた。
 掟に背き、葉月を救うために里を出た。
 結局。


 葉月の表情に歪みはない。
 邪気を宿しながらも、静かに眠っている。
 魔を解き放つ鍵となるにしても、魔を封じる鍵となるにしても、その身は滅びるというに、恐れもなく、苦痛もなく、眠っているように見える。
 川に流される雛は、抵抗する術など、知らない。
 運命のままに、己の役割を果たすために、流されゆき……

――それを…壊すのは。
 流される雛を心から想い、手を伸ばすのは。
 蒼月は月を見上げた。
 丸く満ちた月はまた少し、天頂に近づいていた。

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