七 昇月


――…参ったな。
 木々の影に身を隠し、火月はこっそりと舌打ちした。
 原城の周りにはかなりの数の忍達が潜んでいるのがわかる。一人一人を倒すのは難しくはないが、こっそりと相手を倒すのは苦手である。一人を倒せば他にも次々とやって来るだろう。
 そうなれば最後には、兄、蒼月が来る。そうなったら、葉月を助けることができなくなるかもしれない。
――どうやって抜けるかな…。
 思案することしばし。
――……ええいっ!
 一か八かで一気に抜けるしかない。自分にはそういうやり方が一番あっている、そう火月が腹をくくったとき、
「もうしもうし」
 囁く声と共に、肩に手がおかれた。
「!」
 火月の体が硬直する。
 ぎぎぃっ、と振り向く。
 品のよい香が鼻先をかすめる。
「忍にしてはちょいと注意力に欠けるな。気をつけた方がいい」
 柿渋の装束を纏った『といち』が立っていた。着流しではない、忍らしい装束だ。その帯に白い花をつけた枝を差していた。
「……あんたか」
 ほおっと息を吐くと、火月はその場に座り込んだ。
「気を抜いている暇はないぞ。
 さあて、行こうか」
 『といち』はニッ、と笑みを投げた。
「行くたって、どこにさ」
「原城跡。言っただろう」
「そんな簡単なことじゃないぜ。あちこちに風間の忍が潜んでる」
「いい抜け道がある。特別に案内してやろう」
「抜け道ぃ?」
 不信げに首を捻った火月に、『といち』はついてこい、と顎をしゃくった。
 釈然としない表情を浮かべながらも、『といち』の自信たっぷりな様子に、火月は後を追っていた。
 『といち』の案内は的確だった。
 風間の忍達の監視をすり抜け、原城へと火月を導いて行く。
 あたかもいない場所を知っているかのように。
「なあ、あんたの目的って、なんだ?」
 声をひそめ、火月は問いかけた。
 原城には風間の忍のほとんどが来ているようだ。そんなとんでもない場所に、しかも、魔が封じられていると言う場所に、何故だろうか。この男が忍であることは知っている。この男が見かけよりも腕は立つのもわかる。だがそれでも危険だ。
「……お前…あそこに何があるか、知ってるな」
 少し思案の様子を見せたが、低い声で、『といち』は問いを返した。
「魔が…封じられてるんだよな?」
「それが何かも知っているな」
「いや」
 足を止め、呆れた視線を『といち』は火月に向けた。
「お前、風間の忍だろう?」
「だって知らねーもんはしょうがないだろ」
 溜息、一つ。
「菅公、菅原道真だ」
「道真って、天神様の?」
「ああ」
「それがなんで?」
 素直に問いを重ねる火月に、もう一つ溜息をつくと、『といち』は歩を進めながら、答えを返した。
「恨みを抱き、鬼と化した菅公の魂は神として奉られることで慰められた、ということになっている。だが人の恨みつらみはそう簡単に消えやせん。
 その憎しみは形を成し、なおも災いを振りまいた。それを封じた一族があった。魔を封ずる一族、封魔の一族」
「おい」
「その一族は封印を守るために、近くに里を構えた」
「おい待てよ」
 顔色を変えた火月の声を無視し、『といち』は言葉を続ける。
「そいつらは素性を隠すために封魔の字を変え、読みも変え、いまだに残っている」
「それが俺達風間……か」
「風間の衆は封をずっと守ってきた。弱くなれば封じ直し、封を害する者があれば、それを排し、とな。
 まあそれはそれで結構なんだが、一五○年前にとんでもないことをやってくれてな。その時の因縁の清算だ」
「なにが?」
「儂の目的だ。お前それを聞いたろう」
「あ、そうだった」
「………変わらんなぁ、つくづく」
「へ?」
 最後に呟いた言葉に、きょとんと火月がしたとき、『といち』が足を止めた。
「あそこだ」
 やっと火月に聞こえるような声で、『といち』は城を示した。
――……葉月……!
 辛うじて声は上げずにすんだ。
 天頂にたどり着いた月が投げ下ろす光の中、彼の妹は妖しの光に包まれ、ぐったりと宙に浮かんでいた。
 長襦袢だけを身に纏ったその姿は、ひどく頼りなく見え、それでいて、稟と美しかった。
 息を一つ、飲み込む。妹を救う、その思いに心が奮い立つ。
「俺、行くぜ……?」
 『といち』の方に目をやって、火月は首をかしげた。
 つい、ほんの、今までそこにいたというのに、『といち』の姿はそこになかった。
 火月の目の前で、ただ、しゅる、と風が渦巻いていただけ。
 そして、風に微かに薫る、ほのかな花の匂い。
 しばらく、ほんの少し茫然として、火月は立ち尽くしたが、すぐに我に返ると、大きく息を吸った。
「葉月、いま行くぜ」
 口の中で呟くと、火月は、飛び出した。
 まっすぐ、最愛の妹の元へ。


――火月……!
 飛び出した赤い姿に、蒼月は心中で声を上げた。
 必ず来ると、わかってはいたけれど。
 しかし、この厳重な警戒の中、どうやって気づかれずに?
 ざわっ
 風間忍達も火月に気づいたようだ。動揺に空がさざめいている。
 そのさざめきを凝縮したように慌てて、一人の忍が姿を現す。
「蒼月殿、大変です」
「どう…しました」
 視線は火月に向けたまま、声に答える。
「皆が何者か…おそらくは、甲賀衆に倒されて、います。いえ、今も、あちこちで、陣が…」
 甲賀衆…。蒼月の脳裏に、『といち』の姿が浮かぶ。
――あの男が…火月を案内した……か。
「頭からの指示は?」
「何があっても、蒼月殿は、お役目を果たされよと」
「承知しました……っ」
 小さく息を飲む。
 火月の前に、火月と葉月の間に立ち昇る、邪気の塊。
「蒼月殿?」
「いえ。ここは…私に任せてください」
「はっ」
 足早に忍は消える。
 蒼月の目はずっと、火月の方に、向けられたままだった。


 後、ほんの少しだった。
 ほんの少しで、火月の手は葉月に届くはずだった。
「葉月ぃっ!」
――火月兄さん、駄目!
――葉月!?
 心に反して、体は後ろに飛んだ。
 ごおぉっ!
 その目前に邪気の柱が、天へ走る。
『我ガ邪魔ハ許サヌ』
 邪気の中から、ゆうらりと黒い影が姿を現す。
 束帯を纏い、笏を手にした男だ。
 さほどよい体格でもない、むしろ小柄とも言える男だが、その身からはドス黒い気を立ち昇らせ、その面には強い憎悪の表情が刻まれている。
「道真さん、か」
 後ろ腰の刀に手をかけ、火月は身構える。
 その頭の上では早くも、災炎が一つ、二つと姿を現し始めている。
「我ハ復讐スル者。
 我ヲオトシメタ者、我ガ心ヲ縛リシ者ニ仇ナス者。
 ソノ邪魔ハ許サヌ」
 地の底から響くような低い声で言い、すう、と笏を構える。
 問答無用の敵意がこの男にはあった。
 巨大な、しかしそれ故に純粋な、「全て」に向けられた敵意。
「てめぇの都合なんざ知ったことか! 葉月は返してもらうぜ!」
「コノ『雛』ハ我ガ目覚メノ糧。決シテ渡サヌ」
 ぼう、と青白い気が炎となる。
「邪魔ヲスルノナラ、貴様ヲ滅スル」
「させるかよっ!」
 真紅の炎に包まれた朱雀を、火月は抜きはなった。


 火月の炎は確かに、その敵に確かな手傷を与えていく。
 本来なら火月一人では太刀打ちできるはずはない。敵は九百年の昔に封ぜられた古い怨霊。深い悲しみと憎しみから生まれた怨霊だ。
 だが、葉月を救うという想いが、怨霊を形作る悲しみや憎しみと同じぐらい強い純粋なその想いが、炎に力を与え、火月の体をつき動かす。
 そして火月の存在は、強い想いは、『雛』である葉月の心を……
 葉月を包む邪気が震えるのが、蒼月には見えている。
「しかし………!」
 漂う、ほのかな甘い香に、蒼月は振り返った。
「倒せないだろうな。
 火月一人、では」
「貴様っ」
 そこには、柿渋の忍装束に身を包んだ背の高い男が一人、いた。
 衣は違うが間違いなく『といち』だ。
「かつて菅公を封印した四神の宝刀も、残るは二振り。
 それでは倒すことも封じることもできん」
 薄い笑みを顔に張り付け、『といち』は言った。
「………」
「だからこそ、一五○年前には三万もの民の命を封印に利用した」
 笑みが消える。
「利用できるものは…なんでも利用する。風間は、忍」
 そういう蒼月の表情は、硬い。
 言葉に乗せた皮肉の響きとは裏腹に。
「確かにな。
 だがあの地獄は一五○年もの間ずっと、甲賀の心に小さな刺となって残った」
 月を見上げた『といち』の目には、深く長い時が宿ったかのようだった。凄惨な地獄を、静かな目で、この甲賀忍は見つめているかのようだった。
「だからことごとく…私…風間の邪魔をすると…言うのですか」
 ふ。
 『といち』が笑うように小さく息を洩らす。
「そこまで甲賀は暇ではなく、そんなことで『役目』を見失うほど、愚かでもない。
 利用できるものは、利用するだけだ」
 帯に差していた枝を抜く。一尺ほどのその枝は、白い花をいくつもつけ、そこから品のよい香気を放っていた。
「なに……?」
「ん?」
「うわあああっ!」
 蒼月の険しい視線を受け流し、『といち』が向けた視線の向こうで、火月が邪気の強力な一撃を受け、ふっとんでいた。だがすぐ立ち上がり、構える。
「心の力は強い。だが、心だけで倒せる相手でもない。早くなんとかしないと、死ぬだろうな」
 火月はすぐ立ち上がり、邪気にまた向かう。
「例えば…『雛』を使って邪気を封じるとか」
 『といち』が再び薄い笑みを口元に浮かべるのが、嫌みなまでにはっきりと蒼月には感じられた。
「……!」
 ぎりっ、と蒼月は歯を食いしばる。
――落ち着け。
 心の中で、二度、三度、繰り返す。
 甲賀は『雛』を使った封じを嫌うはず。それを敢えて口にするのは、挑発だからだ。蒼月の心を乱し、思うがままにことを進めんとするための挑発だ。
 そんな蒼月を後目に、『といち』はどっかりとその場に腰を下ろした。
「儂はここから見させてもらう。
 蒼月殿が選んだだけあって、いい見晴らしだ」
 徳利を口元に運ぶ。
「勝手に…するがいい」
「そのつもりだ、はじめから…初めから、な」
 酒をあおり、
「東風吹かば……」
低く呟きながら『といち』は花の匂いをそっと嗅いだ。

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