夜の帳に包まれた江戸は、静かだ。 ことに武家町の辺りは、針が落ちる音さえも聞こえそうなほどに、静かだ。 その静かな闇の中、細い月の光さえも避け、足音無く駆ける者があった。 服部半蔵と、伊賀組同心の忍である。二人とも、筒袖と伊賀袴、口元だけを隠す覆面に忍刀を一振りだけの軽装であった。 向かうは、先の勘定奉行、真壁将監の屋敷。 ――二刻ほど前に話は遡る。 十兵衛との話を終えた半蔵は、伊賀町の長を訪れていた。勿論、真壁将監のことを報せるためだ。 「左様でございましたか……」 半蔵から話を聞いた長は、それきり、言葉を途切れさせた。その顔には、思案の色がある。惑いの色がある。 清三を襲った侍達の上に何者かがいることぐらいは、長はじめ伊賀組の者達も念頭には当然あっただろう。だが、どれだけ見事であってもたかがつつじ、元とはいえ勘定奉行までもが絡んでいることまでは、思慮の外だったに違いない。 真壁将監の名が出てきた以上、伊賀組の内だけで追うには、事は大きい。 かといって、このままにしておくこともできない。というより、伊賀組同心の心情としてはこのままにしておきたくはない。身内を害されれば、忍とて腹を立てる。降りかかった害がなんなのか、見極めたいとも思う。 しかしこの世のことなど大半のものには思う通りにはならない。更に忍となれば、沈黙と闇に望みを収めねばならぬ事も多い。 今は、どうなのか。それでもを貫くのか、闇へと引くのか。それを判じるが長の役目だ。 一方で半蔵もまた伊賀の忍であり、伊賀忍を代表する「服部半蔵」の名を負う者だ。伊賀組同心の思いも、事情も、半蔵のものでもある。 故に、半蔵は今は沈黙を保った。軽く目を閉じ、長の言葉を待っている。 ややあって、長が口を開く。息を合わせたように半蔵も目を開く。 「……半蔵様」 「うむ」 「今しばらく、調べを進めます。 柳生様のお話だけでは、証左として不十分かと。 それに、できうるならば……」 言いかけて、長は言葉を切った。 「うむ」 半蔵はただ頷いた。切った言葉の先は問わない。 長は決して十兵衛を疑っているわけではない。確証を自分達で得たいと望み、そして、できうるならば奪われたものを取り戻したいと望んでいるだけだ。忍の踏み込める、ぎりぎりの域の中で。 だがそれらを果たすには真壁将監の身辺に近付く必要があるものの、十分な時はない。 花の盛りは短い。また、十兵衛の言う通りならば、早い内――明日か、明後日かの内に、確証である奪われたつつじは真壁の手から老中のいずれかに進呈されることだろう。 つまり、今の時点では乱暴であり大きな危険の伴う手段であるが、闇に紛れて屋敷に潜入するより、ない。 長は、一呼吸の間ののち、口を開いた。 「そこで、改めてお願い申します。 半蔵様の力を貸していただきます」 「承知」 服部半蔵以上にこの任に適した忍はいない。半蔵自身がそれを理解している。 故に、拒む理由も必然もない。 「ありがとうございます。 半蔵様の手を煩わせるのは心苦しいのですが……」 長は、半蔵に渡されていた棒手裏剣を手に取った。忍にも幾つかの流派があるが、伊賀の忍の知る限りの内で、このような手裏剣を扱うものはない。 「我らのみでは、手に余りましょう。 さらに、柳生様のこともございます」 「柳生殿は、人使いが荒いな」 「それは、皆同じで」 「そうであったな」 期せずして、二人は同時に口の端を吊り上げた。 諦念と覚悟の入り混じった、苦笑の色がそこにはあった。 ――そして今へと話は戻る。 半蔵と伊賀組の忍は、真壁将監の屋敷に潜入することに成功していた。 伊賀組が所有していた、真壁の屋敷の見取り図――明け屋敷番という役柄を利用し、伊賀組は秘かに武家屋敷の間取り図を数多く所有している――をあらかじめ確認してあったとはいえ、ここまでの進入は拍子抜けするほどに楽だった。そのことに不穏と不気味さを感じながらも庭の一隅の闇に身を潜め、二人は屋敷の気配を探った。 庭にはとりあえず人の気配はない。犬が放されているということもなさそうだ。 屋敷の方は、雨戸の隙間から明かりが洩れている部屋が幾つもあるのが見て取れた。洩れる光が揺れたり、時折消えて見えるところから、部屋の内にはそれなりの数の者が控えているのだろう。 ――事を起こした日だ。真壁も早々に休みはすまい…… 『お主はここで待て。 儂が屋敷の内へと入る』 矢羽音――忍が用いる、他人にはわからない仕草や符丁のみで言葉を交わす手法――で半蔵は忍に命じる。 『はっ』 答えた忍は、先日の任の時にも半蔵に従い、半蔵につつじの市のことを教えた嘉助であった。 『何かあれば、即、退け』 『承知』 嘉助の答えを背に、半蔵は闇を縫って屋敷へと向かった。 |